荒川光のブログ

Hikaru Arakawa's blog

「今さら人に聞けない○○」っていう言葉を目にするたびにイラつく

最近あちこちで目にする

「今さら人に聞けない〇〇」という言葉

本当に人をイラつかせますね

 

今さらきいて何が悪いの?

私には「今さら人に聞けないこと」なんて一つもありませんよ

何だって、誰にだって、平気でききますからね

 

 

こんなことも知らないなんて恥ずかしいよ、と人を不安にさせて

これくらいのことは知っておかなきゃダメだよ、と相手の価値を貶める

 

挙句の果てには

「サルでも分かる〇〇」なんて人を小馬鹿にしたような謳い文句で

分からない人のことをサル扱い

 

そして自分に自信を持てなくなった人たちから

お金や時間をだまし取っている詐欺師たち

 

まるで「オレオレ詐欺」ならぬ「今さら人に聞けない詐欺」ってやつですね

 

そんな手にのる私じゃない

今さらだって一向にかまうもんか

堂々と尋ねてみようよ

「知りません」「教えて」という一言で、また自分の世界が広がる

 

お礼に、自分の知っている数少ない、いくつかのことを

みんなにおすそ分け

 

 by 荒川光

 

 

なんてちょっとポエムっぽい感じで書いてみましたが、どうでしたでしょうか?

私は日常腹を立てたり憤ったりすることの少ないタイプだと自負しているのですが、件の「今さら人に聞けない」にだけはどうしてもひと言もの申したく、怒れる詩人と化してしまいました(怒っても怖くないけど)。

 

それにしても、知らないってことはそんなに恥ずかしいことでしょうか?

昔と違って今の時代は情報量がとんでもなく多く、なおかつ今こうしている瞬間にも、膨大な情報が次々と生まれています。

祖父母の時代のように、これだけ知っていれば一応大丈夫などという安心できる常識の範囲が不明瞭です。

コンピューターやインターネット、政治や経済からサブカルチャーにいたるまで、今やどこまで知っていることが社会から求められているのか分かりません。

 

 

よく「こんなの常識だぞ」などと偉そうにのたまう人がいますが、そんなセリフを自信満々で口にできる人というのは、この世界がどれだけ広いか知らないのではないでしょうか?

自分の住んでいる世界しか知らないものだから、常識とそうでない範囲との境界を簡単に線引きできるのでしょう。

 

でも私たちが自分の慣れ親しんだ世界から一歩足を踏み出せば、もう自分は異邦人。

挨拶一つするにも、まごまごしてしまうことだってあるのです。

 

そう考えると、勇気を出して安全地帯から出てみようとしない人たちだけが、非常識のそしりを免れていられるのかもしれません。

しかしそんな臆病な人たちが、世代の違う人や、宗教の異なる人や、外国人や、障がいのある人や、性的少数者や、ニートやひきこもりや犯罪者たちと、コミュニケーションを取れるでしょうか?

もっと言えば、私たちは一人ひとりみんな違う人間なのに。

 

だから私は自分の常識を頼りにできない状況での経験(例えば旅などはその典型だと思いますが、それに限りません)を積むことに、もっと積極的になろうと思います。

その経験が、翻って常識の庇護を受けられずに戸惑っている人たちのことも慮れる力になるのではないかと考えるからです。

 

「常識」はそんなふうに一人ひとり違う私たちが円滑に関わっていくために便利な道具であり続けてきたのでしょうが、今の時代には「常識」の範囲は相対的にあまりにも小さくなり過ぎて、もはや「常識」の役を果たさなくなってきていると思います。

 

「常識」の反対を「非常識」というように対義語として捉えるのではなく、「常識」から放射状にだんだんと常識の色合いを淡くしていくグラデーションというように、知識の総体を考えてみるのはどうでしょうか?

「常識」のすぐ外側に危険な「非常識」の海があるのではなく、その間には静かで穏やかな波打ち際が・・・。

なんて景色、良くないですか?

 

「今さら人に聞けない」などと恥ずかしがることもなく、また恥ずかしがらせることもなく、お互い相手の無知に寛容でありたいものです。

 

などと、なんだかよく分からない文章をまとまりもなく書いてしまいましたが、言いたいことを乱暴な一言でいうと、つまり

「お前だってよく知らねぇことあるだろ。自分の知ってることしか知らねぇくせに」

ってことです。

 

あーすっきりした。