荒川光のブログ

炎上しない程度の過激発言! を目指しているのですが、出来上がった文章を読んでみるといたって正常で健康的です。ホッとするやらガッカリするやら複雑な心境です。

「アナと雪の女王」から学ぶ、観客を退屈させないための工夫

大ヒットしたディズニーアニメ「アナと雪の女王」を、公開から3年以上たった今になって、DVDでやっと観てみました。

視聴しての感想はいろいろあるのですが、今回はその中でも私が非常に考えさせられ、勉強にもなった点について述べてみます。

 

物語の粗筋については割愛させてください。

映画をまだ観ていない方には分かりにくいところがあるかもしれませんが、興味を持たれた方は是非実際に本作をご覧ください。

 

国王夫妻をすみやかに、美しく死なせる手際の良さ

 

アナとエルサの両親、つまりアレンデールの国王夫妻は船旅に出るのですが、途中で嵐にあって船は沈没、夫妻は命を落とします。

これをわずか30秒ほどの映像で「説明」してしまうのです。

出発の場面、船に乗り込むシーン、嵐の海で大波にもまれる船、葬儀と遺影。

こういった5つ6つの場面を連続して映すだけで、国王と王妃が亡くなったということが私たちに知らされます。

国王夫妻はなぜ船に乗らなければならなかったのか? どこへ向かったのか? それは分かりません。またそんなことは映画の本筋に必要ではなく、国王夫妻に死んでもらうことだけがストーリー上不可欠なことなのでした。

子供の観る映画なので死の残酷さを可能なかぎり少なくし、なおかつ視聴者も納得する死なせ方として海難事故が採用されたのでしょう。

 

人の死には大小あれど苦痛が伴うものですが、映画の中ではその苦痛は表現されず、嵐の海で沈没の恐怖とともにいる夫妻も描かれません。

視聴者は死の生々しさに触れることなく「死んだ」という情報だけを安全に得て(というよりも「ゲット」して)それに続く楽しいストーリーに再び戻ってこれる仕掛けになっています。

2時間に満たない映画なのですから、もう少し時間をかけて船内の様子や、パニックに陥る乗客や、悲嘆にくれる遺族の様子も描写できたはずなのですが、そうはしなかった。

ここから学べるのは視聴者を飽きさせないための工夫です。少しでも退屈されそうな場面はそぎ落とし、しかし視聴者がストーリーを追っていく上で最低限必要な情報は最短の時間で伝える。

 

「所々ダルかった」とか「途中で時計ばかり見ていた」などという感想が出ることは避けなければなりません。「退屈だった」という感想を持たれることを異常なほど恐れる製作者側は、退屈要素を洗い出し、潔癖症なほどに徹底的に排除してしまう。

視聴者がこの映画をビデオで観ていたなら早送りしてしまいそうな場面は、製作者側が親切にも初めから早送りした状態で完成させてくれたのです。

そしてそれは確かに成功していたのですが、その結果ストーリーの展開の仕方に強引さを感じてしまったことも否めません。また、あまりにも駆け足で物語が進んでいき、こちらが想像力を膨らませるようなゆとりや、車のハンドルでいうところの「あそび」がありませんでした。

 

観客を退屈させまいという過剰なサービス精神は、息もつかせぬほどに次から次へと感情を揺さぶるシーンを私たちに押し付けてきて、それは少し暴力的なほどです。

オラフという雪だるまが夏を想像して歌う場面など、ちょっと観客に一息つかせるような「ゆるい」場面も確かにあるのですが、それすらも計算されてそこに用意されたゆるさであり、視聴者はここでホッと一息つくことを強制されます。

ここでドキドキしろ、ここで怒れ、ここで感動して、ここで泣け、という風に視聴者の心理状態を恣意的にコントロールしよう、そしてそれは可能であると思い込んでいる製作者の、ちょっと意地悪な言い方をすれば傲慢さを、敏感な人は感じてしまうでしょう。

そしてそんな意図は理解していながらも、いともたやすくその通りの気分にさせられてしまう自分を「まぁいいか、そんな風に作られているんだから」と半分あきらめ気分で納得させようとするのですが、やはり屈服したような敗北感は拭いきれません。

 

退屈を乗り越えて視聴者が我慢強く映画を観続けてくれるだろうかという不安は、コンテンツの製作者には常にあるものだと思います。また、忍耐強く観てくれる視聴者だけに理解されればいいなどとも考えていないでしょう。

エンターテインメントなのですから素直に楽しめばよいのですが、楽しませようという下心が透けて見えるほどに不自然に作りこんでいると、かえって楽しめないという矛盾が起きてしまいます。

「愛してる」「愛してる」などと身分不相応なほどに言われると、かえって嘘っぽく感じてしまうようなものでしょうか?(注・言われたことはありませんが・・・)

 

古典文学などには非常に退屈な場面が多く、ドストエフスキーやバルザックなどでも一見端折ってもさしつかえないようなこまごまとした描写が延々と続くところがあります。部屋の中の描写だとか、家具や衣装がどうだとか、そんなどうでもいいように思えることに何ページもさいています。

そんな場面を読者に苦労させて読ませようとする作者の意図はなんなのでしょうか? そもそも読者のことなど考えてなくて、自分の描写力や修辞の技巧などを開陳する場として捉えているだけなのでしょうか? 

 

クラシック音楽も私は好きなのですが、ベートーベンにしてもモーツァルトにしても、例えば長い交響曲の中などには退屈する部分がやはりあるのです(でもそんなところを耳を澄ませて一生懸命聴くのも好きなのですが)。

何か訳があってわざと退屈させる部分を作っているのでしょうか?

もしそうなのであれば、その理由を是非ともきかせてもらいたいものです。

 

結局は製作者が自分の美意識の表現のために作っているのか、作品の受け手のために作っているのかという違いでしょうか。

 

私もブログの記事を書いていて、私自身は書きたいことだけれども読んでくれる人が退屈しそうだと思う部分は悩んだ末に削除してしまうことが多々あります。

今後どんなふうに記事を書いていくかということについても考えさせられる映画でした。