荒川光のブログ

炎上しない程度の過激発言! を目指しているのですが、出来上がった文章を読んでみるといたって正常で健康的です。ホッとするやらガッカリするやら複雑な心境です。

「ねこふんじゃった」という恐ろしい歌がある

誰もが子供の頃に「ねこふんじゃった」という歌を聞いたことがあるのではないでしょうか?

 

猫を飼っている人は、時々この歌を思い出して口ずさむことがありませんか?

実は私もそうなのです。そしてどんな時に思い出すことが多いかというと、それは猫を踏んでしまいそうになった時なのです。

 

例えば私が台所で食事の準備をしている時、ちょっと冷蔵庫の中のものを取ろうと一歩足を踏み出そうとしたら、そこに猫のピヨピヨ(仮名)が寝そべっていてヒヤッとするということがたまにあります。

「危ないなぁ、ピヨピヨ! さっきまで隣の部屋にいたはずなのに、いつの間に!」という感じです。

幸い猫を踏んでしまったことは一度もありませんが、ドキッとしたことは何度かあるのです。

  

さて、ここであなたにもちょっと考えていただきたいのですが、もしも床の上に寝ている猫を踏んでしまったら、猫はどうなるでしょうか?

 

とても想像したくないことですが、心を鬼にして、できるだけリアルに思い描いていただけますか?

私もやってみます・・・。

 

 

どうでしたか? 猫はどうなりましたか?

猫の柔らかいおなか。華奢な背骨・・・。

 

 

そうです。猫は人間の体重で踏まれれば、死んでしまうと思います。

猫を踏むということは、すなわち猫の死を意味するのです。

 

 猫自身は飼い主に踏まれるという可能性を考えていないと思います。

人間のことを、誤って猫を踏んでしまうほど愚頓な動物だとは思っていないでしょう。自分と同じように敏捷で、瞬時の判断力に長けた生き物だと信じているに違いありません。

なぜなら自分自身がそうなのだから。

 

猫は獲物を追いかけたり逆に敵から逃げたりする時、もの凄いスピードで走ったり跳んだりしながらも、自分が踏みしめる地面の状態をよく見て、次々に判断を下しながら行動しています。

 

そんな猫にとって、「人間とは冷蔵庫の扉を開けるために一歩足を踏み出す程度のことで、猫に気づかず踏んでしまうほど間抜けな動物だ」などと、信じられるでしょうか?

 

しかしながら人間は、そのような点においては猫にはるかに及ばないほど劣っているのです。

猫が生まれながらにしていともたやすくやってのけることを、人間はできません。逆もまたしかりですが。

 

猫を踏むことを想像するとゾッとするのは、猫の苦しみと死のためばかりではありません。

「なぜ?」という疑問を猫に抱かせたまま死なせてしまうという、悔やみきれない結果となるからなのです。

さっきまで優しかったご主人様が、なぜ私を踏んだのか?

猫には分かりません。

「過失」ということを理解できないのです。

断末魔の猫に「なぜ?」という目で見つめられたなら、私にはとても目を合わせることなどできないでしょう。

 

 

前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、冒頭でも触れた「ねこふんじゃった」という歌について。

 

ちょっと調べてみたところ、この曲は作曲者不詳で、世界で約28種類の曲名がつけられており、国や地域ごとに様々な歌詞で歌われているそうです。

日本でもいろんな方がこの曲に作詞されているそうですが、中でも一番有名なのは、NHK「みんなのうた」でも使われた阪田寛夫さんという方の歌詞でしょう。

 

私は長い間多くの人々に愛唱されてきたこの歴史ある歌を、残酷な歌詞ゆえに批判しようなどという気持ちはありません。

「これっぽっちもありません」と書かなかった理由は「これっぽっち」くらいは実はあるからなのですが、それはひとまず置いておいて、私が疑問に思ったのはこの作詞家の方はどうしてこんな歌を作られたのかということです。

 

歌詞の1番2番を通して見てみましたが、何のオチもなく、ユーモアもなく、笑うこともできません。

歌ってみても、まったく楽しい気持ちになりません。

そしてこの歌からは猫に対する愛情を髪の毛ほども感じることができないのです。

 

きっとこの作詞家の方は猫がお嫌いだったのではないかと推察します。

猫好きな方だったなら、たとえいくら語呂が良くて、言葉遊びとして面白く、口ずさんで楽しかろうとも、こんな歌詞は書けないと思うのです。

(もっともこの歌は歌詞の意味を度外視したとしても、語調に品がなく、歯切れも悪く、音声的な美感もない低級なものですが)

 

こんな歌詞を喜んで口にする大衆というのは一体どんな野蛮人たちなのでしょうか?

こんな歌がウケるんだったら「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」の代わりに「犬の首切っちゃった、犬の首切っちゃった」も楽しいだろうし、「ウサギの目えぐった、ウサギの目えぐった」だって愉快なのではないでしょうか?

 

先ほど私はこの歌を「長い間多くの人々に愛唱されてきた」と言いました。しかし実のところこの歌は、それほど世間で歌われているわけではありません。

その証拠に私も含めてほとんどの人は、出だしの「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」の16文字しかそらんじることができないのです。

その後を続けて歌うことができません。

歌う理由も必要もないし、歌う喜びがないからです。

だったら出だしだって口にしなくてもよいのですが、親から聞かされたのか学校で教えられたのか、幼少期の純粋無垢な頭にすりこまれたこの忌々しい歌は、それから40年もたった今になってもひょんなきっかけで私の脳裏に浮かび上がってくるのですから困ったものです。

 

作詞をした阪田寛夫さんは小説家でもあり、芥川賞や川端康成文学賞の受賞歴もあるとのことです。一体どんなものをお書きになられたのでしょうかね。

こんなテキトーに考えて作ったような歌詞を世に出すなんて、もしかしたら何かのっぴきならない事情があったのかもしれません。

わざと半分ふざけたような歌詞を作るように依頼されたとか、借金のためにその場で1分で作ることを要求されたとか。

 

 

ひょっとしたらこの歌には、今の私には理解できない深い世界観や人生観が表現されているのかもしれません(ないと思うけど)。

「ねこふんじゃった」を軽率にも批判するという過ちを犯した浅はかな自分を、許せないほど後悔する日がいつか来るのかも(来ないと思うけど)。

 

子供の頃に「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」と口ずさみながら、私は幼いながらも「これはちょっと自分に合わない」というような違和感を感じていたのでした。

しかしその頃の私は、その違和感の正体を掘り下げて突き止めようとまではしませんでした。それは私の心に吹いてきた一瞬の風に過ぎず、すぐに過ぎ去っては忘れてしまうものだったからです。

しかし猫と一緒に暮らすようになった今ではあの頃の違和感の意味が分かります。

陽気な楽しいリズムに乗って猫を踏みつぶす歌を歌うなんて、猫に一体どんな恨みがあればそんなことができるのでしょう?

 

 

いつの日か誰か才能のある人がこの歌詞の別バージョンを作り、それが話題になり、世間に広まり、本家を凌いでこの曲のスタンダードとなることを願います。

そして私たちの孫の代には、子供たちがみんなその新しい歌を歌う日が来ますように。

 

 

さっきから偉そうなこと言ってるけどお前はどうなんだ、という声も聞こえてきそうなので、私もちょっと作詞に挑戦してみました。

こんなのどうでしょうか?

 

「猫フンしちゃった、猫フンしちゃった、猫まーくらもーとにフンしちゃった」

最低ですね。