荒川光のブログ

Hikaru Arakawa's blog

アドセンス広告をクリックされるという嬉しさと悔しさのジレンマについて考える

2ヶ月くらい前からグーグルのアドセンス広告を貼り始めました。

PC版とモバイル版ともに「記事上」「記事下」「フッター」の3ヶ所に貼っています。

多くはありませんがクリックも発生しています。しかし自分がアドセンス広告を貼る前には予想もしていなかった感情に少し戸惑っています。

今回はそんな自分自身の気持ちについて書いてみようと思います。

 

 

記事上広告 

まだ期間が短いため安定的なデータを取ることができていませんが、今までのところでは記事上広告のクリック率が結構高いのです。

しかしこれは素直に喜ぶべきことなのでしょうか?

クリックされると確かに嬉しいには違いないのです。クリックしてもらうために貼っている広告なのですから。しかし同時にちょっとしたさびしさも感じてしまいます。

なぜかというと、記事上広告をクリックされるということは、記事をほとんど読まずに離脱されたと考えられるからです。

もしそうだとすると喜びも半減してしまいます。その記事は広告に負けたということですから。広告の方が面白そうだと思われたということですから。

 

広告収入を得ることが目的で記事を書いている人なら、誤クリックだろうがひやかしだろうが、クリックさえされればそれで目的は達成されたのですから満足するのかもしれません。

しかし記事を読んでもらいたい、自分の意見を聞いてもらいたいと考えている人にとっては広告を踏んで離脱されるということは敗北に等しいことなのです。

 

気になった広告があっても記事を一旦最後まで読んで、また一番上まで戻ってきて記事上広告をクリックするなどということがあるでしょうか?

もしくはお楽しみの記事は後に取っておいて、まずは記事上広告のリンクから広告に飛んで、その後再び記事に戻ってくる。そんなことがあるでしょうか?

どちらもちょっと考えにくいことです。少なくとも私はやったことがありません。

だから記事上広告をクリックしたユーザーは、その記事は読まなかったと考えられるのです。

 

ブログの記事には2種類あって、1つはユーザーにとって役に立つであろう情報をシェアしますのでご覧くださいっていうもの。もう1つはユーザーの役に立つかどうかは別にして、自分の考えを伝えたい、自分の意見を主張したいという我欲のために書いている記事。

 

私の場合は上の2つの比率は1対9くらいかと思います。我欲の方が9ですよ。

ユーザーの役に立って喜ばれることが目的の記事であれば、記事本文が役立てばそれはそれでもちろん良いことなのですが、記事よりも広告を選んだユーザーにとっても、その広告と出会う機会を提供したということで、その記事はユーザーの役に立ったと考えることもできるでしょう。かなり強引な解釈ですが。

 

しかし私のように、ユーザーの役に立つかどうかよりも自己主張と自己顕示欲で書いているような記事の場合には、記事を読まずに広告をクリックされたとすれば、「広告に逃げられた」「広告に取られた、持っていかれた」という残念な気持ちは拭いきれません。たとえその悔しさと引き換えに10円ぐらいが手に入ったとしても。

 

ブログを運営している人は広告をクリックされることと「お金」を常にセットで考えることが習慣になっていると思います。しかしブログ運営をしていない人は、広告をクリックしたらどうなるかなど考えもしないのが普通でしょう。

単純に自分が興味を抱けばクリックする、興味がなければクリックしない、それだけです。自分のクリックがブログの運営者にたとえ小さくてもなんらかの影響を与えるなどということは意識しないことがほとんどだろうと思います。

そして世の中にはブログの運営などしていない人の方が圧倒的に多いのです(調べたことはないけれど)。

 

 

記事中広告

記事の中ほどに貼った広告もクリック率が高いとのことで貼っている人も多いですが、記事を読んでいる最中に広告に注意をそらされたくないという理由から私は貼っていないのです。

 

たとえば音楽を聴くとします。ユーミンでもコブクロでも誰でもいいので好きなミュージシャンを想像してみてください。

その歌が始まる前に広告が入る、あるいは終わった後で広告が入るというのならまだ我慢できますが、歌の1番が終わったところで15秒間の広告が入り、その後2番が始まるなどという構成になっていたとしたら聴きたいと思うでしょうか?

演奏者はリスナーの感情を揺さぶろうとしています。なのにその感情の高ぶりや流れを突然断ち切って、まったく別の広告という情報にリスナーはさらされます。そして15秒後に再び音楽の世界に戻ってくる。

そんなおかしな音楽体験をしたいと思うでしょうか?

 

テレビで放送しているドラマや映画でも途中でコマーシャルが入りますが、私たちがこれを我慢できるのは、おそらく昔から何十年にも渡って続いている儀式で、そういうものだと慣れてしまっているからでしょう。

それはもしかしたら慣れてしまってはいけないことなのかもしれませんが、テレビに去勢され、牙を抜かれた私たちは反抗してみる意思も湧きあがらず、それを当たり前のことだとみなしています。

コマーシャルをトイレに行ったり食器を洗ったりする時間だと考えている人だっているのです。

 

私の記事も、最初から終わりまで一気に読んでもらいたいというのが本音です。途中でよそ見されたくないし、いわんや広告の方がおもしろそうだなと目移りしてそっちに飛んで行っちゃったなんてことになれば、それは私の記事がつまらないからいけないのですが、正直に言って「振られちゃった」って気分でガッカリします。

 

「ユーザーに役立つ情報を提供する」ことが趣旨の記事ならそれでもいいと思うのです。ユーザーは必要なところだけを読んで必要な情報を入手できればいいし、それに関連した広告を見ることも必要な情報を得る一環だと思います。

ブログの運営者は広告と対立する必要はなく、いわば共存共栄の関係を築くことができるのです。

 

しかし私の場合は違います。広告はきつい言い方をすれば敵。ゆるい言い方をしてもライバルです。

 

「だったら広告なんて貼るなよ!」

そうなんです。その通り。広告を貼らなければいいだけなのです。

なのに貼る理由は何か?

答えは言うまでもなく明らかなので、わざわざ書き立てて記事の文字数を増やそうとは思いませんが、つまりは広告収入目当てですね。あっ、言っちゃった。

 

しかし私には収益とは別のもう一つの理由があるのです。

それは何かと言うと、私の記事にはアイキャッチの画像やイラスト、写真などがないため記事が殺風景なのです。アドセンス広告はそれらに代わって記事に色を添えてくれます。白黒の記事に華やかさがもたらされるのです。

 

記事に広告が出ていると、ちょっとプロっぽいというか玄人っぽいブログに見えます。

真っ白な画面に黒い文字で文章を綴るだけでも読んでくれる人はいると思うのですが、広告が出ていると記事に彩りが生まれるのです。私は広告にその効果を期待しています。

 

ブログに写真やイラストなどをなぜ載せないのか? という当然浮かんでくるだろう疑問に対してはこう答えましょう。

すなわち私の勉強不足、知識不足のためにまだそれらの作業ができないのだと。

きれいな写真で記事を飾りたいという欲求はもちろんあります。ヘッダー部分のデザインも個性的でセンスの良いものに変えていきたいと思っています。今後勉強して少しずつ改良していくつもりです。

記事下広告

記事が終わった後に現れる記事下広告はユーザーにとっても、また私にとっても最も害のない広告です。

記事を読む邪魔にもならないし、集中力の妨げにもなりません。

記事を読み終わった後にちょっと興味のある広告があったなら、覗いてみようかなという気持ちにもなります。

これが一番良いパターンだろうと私は考えます。

 

そんなわけで私の広告の貼り位置は「アイキャッチ画像代わりの記事上」「広告本来の目的としての記事下」「おまけのフッター」の3か所となったわけです(2018年6月時点での方針です。後に変更いたしました)。

 

それではこの辺で終わりにしましょう。

 

この後広告が表示されるはずですが、はたしてどんな広告が出るのやら。

できればこの記事を華やかに飾ってくれるような、そして読者の目を楽しませてくれるような、美しい海辺や100万ドルの夜景だったらいいなと期待していますよ、グーグルさん!