時々ランニングをしています。
家のすぐ近くに「本当に無料で利用していいの?」っていうくらい美しい河川敷があって、気が向いた時に、気分に応じた速さで、気分に合わせた距離を走るようにしています。
ですので10分間だけということもありますし、時には橋を3つも越えてずっと下流の方まで、往復1時間あまり走ることもあります。
そんなランニング生活を、三日坊主で中断したりまた再開したりしながら細く長く続けているのです。
ところで、そんな私の頭を常々悩ませている問題があります。
それはタイトルにも記した通り、ランニング中にすれ違うランナーや、ウォーキングなどをしている人たちに挨拶をした方がいいのかな? どうなのだろう? ということです。
「どっちでもいいよ、好きにしろし」という意見が多いでしょうか?
(あっ、ヤバい! 住んでいるところがバレちゃいますね! 「好きにすれば」っていう意味ですよ)
でも私にとっては結構な大問題で、走っている間中このことばかり考えていて、それが苦しくて走るのを億劫に感じる日もあるくらいなのです。
前方から人が走ってくる(あるいは歩いてくる、犬の散歩をしている)のを発見したときに私の頭にまず思い浮かぶのは、挨拶をどうしようか? なのです。
美人かな? とか、犬が吠えないかな? などの疑問はもっと後になってからです。
ではなぜ挨拶で悩む必要があるのかというと、中には挨拶されることを煩わしく感じる人もいるだろうと思うからです。
すれ違う人すれ違う人にいちいち挨拶されるのは面倒だと思う人もいるでしょう。
また、誰にも気兼ねせずにのんびり景色を見ながら散歩したいという人もいるでしょう。
ですので私は、これから数十秒後にすれ違うであろうその人が挨拶を歓迎するタイプなのかどうか、その見極め作業に入るわけです。
そしてすれ違う直前までに自分の取るべき態度を決定しておかなければなりません。
普段の私はどうしているのかと言いますと、基本的にはすれ違うほとんどの人に挨拶しています。
朝なら「おはようございまーす」と爽やかに。
昼から夕方までなら「こんにちはッ」と明るく。
夜は不審がられたり怖がられたりしてもいけませんので声は掛けません。
では逆に、どんな人には挨拶をひかえるかというと、以下のような人です。
地面と対話しながら走っていて絶対に顔を上げようとしない人(会話を邪魔しちゃいけません)。
ヘッドホンやイヤホンで耳を塞いでいて「挨拶されても聞こえませんよー、したがって返事もしませんよー」と、挨拶してこないでオーラを出している人(音楽鑑賞の邪魔はしません)。
運動不足解消やダイエットなどが目的ではなく、本気で走っているアスリート(挨拶に答えようとすると呼吸が乱れてタイムに影響を与えることを考えると、良かれと思って投げかける挨拶は進路妨害に準ずる罪)。
何をもって本気と判断するのかという問いに対してはこう答えましょう。
すなわち、走るスピードが速い、身体つきがランナー体形、ウェア・シューズなどがファッション性よりもランニングそのものを目的としている、自分自身と闘っている真剣な表情、のうち2つ以上に当てはまる人だと。
例えばプールで女の子をナンパしようとしたときに(注・私はしませんが)、競泳選手のような身体つきをして、競泳用水着とゴーグルを身につけ、自分の限界に挑みながら、すごいスピードでバタフライを泳いでいる人には声をかけにくいものです。
逆に、フリルやリボンなどの泳ぎ自体にはなんら貢献しない装飾のほどこされた水着を着て、プールサイドでぱちゃぱちゃ遊んでいるような娘の方が声をかけやすいのと同じ理由です。
もっと気楽に走ればいいのに、周りに気を使い過ぎて一人で空回りしているだけなのでは、と考えてみることもあるのですが、私だけではなく、多かれ少なかれ他のランナーやウォーカーたちも似たり寄ったりの気持ちでいるのかもしれません。
それが証拠に、すれ違うのが苦痛なのか、私の姿を発見するとさり気なくコースを変えてすれ違わなくても済むように工夫する人もいるのです(私の勝手な憶測ですが)。
一体どうすれば良いのでしょうか?
そもそもランニング中に見知らぬ他人に挨拶する習慣があるのはどうしてなのでしょう?
登山をした時にも同じような経験をしたのですが、登山者同士やはり挨拶するのです。
同じ趣味を持つ人への共感や、頑張っている人への激励のためでしょうか?
またはお互いに仲間だね、という仲間意識の共有のためでしょうか?
でもそんな人でも早朝の通勤時に、駅のホームで見知らぬサラリーマンに挨拶したりはしないのですから不思議なものです。
いっそのこと「ランナー同士はお互いに挨拶しないことがマナーである」あるいは「ランナー同士は挨拶することがマナーである」というような一定方向の規範ができあがれば楽なのにとも思います。
そうすれば、マナーを守っていさえすれば大方の状況には対応できるのですから(もちろん例外もありますからマニュアル人間でいていいわけではありませんが)。
しかし結局人間関係には正解がないわけですから、はたしてこれで正しかったのだろうかとモヤモヤしたり後悔したりしつつ、模索していくしかないのでしょう。
走っていても、身体よりも 頭の方が疲れてしまうことが多いのですが、それでもこの美しい河川敷でみんなが快適に過ごせるように、経験と思考を重ねて「河川敷の人間関係学」を極めていこうと思います。