アボカドが好きで、たまにスーパーで買ってきます。
抹茶色をしたクリーミーな果肉を食べるのがその第一の目的ですが、食べた後に残される、あの大きな種を見るのも楽しみなのです。
なんとも頼もしい、立派な種ではありませんか。ギュッと握りしめたくなりますね。
あの種を見ていて「これを植えたい」「芽を出させたい」という欲望がムラムラと湧いてこない人などいるでしょうか?
私は過去に一度土に植えてみたことがあるのですが、いくら待ってみてもうんともすんとも言わず、芽は出ませんでした。
それ以来アボカドの栽培意欲は失われていたのですが、やはり食べるたびにあの種を目にすると、どうしても植えたい気持ちが湧き上がってきます。
かくして二度目の挑戦とあいなったのでした。
アボカドは熱帯の植物なので、それにふさわしく植える時期も初夏を選びました。
ネットで調べてみるといろんな発芽のさせ方が紹介されています。
中でも「へぇー、そんな方法を考える人がいるんだ」と興味深く思ったのは、種の側面に三方向から爪楊枝(つまようじ)を刺して、水を入れたコップのフチに爪楊枝を引っ掛けて、種のお尻の部分だけが水に浸かっている状態を保つというものです。
このやり方だと、芽だけでなく、根が伸びてくる様子も見られます。
この方法の斬新さは、種に爪楊枝を「突き刺す」という点にあります。
種は今はまだ生きてはいないかもしれませんが、死んでいるという言い方も違うという気がします。
これから命を宿して生き始める、その前段階にある物体。
きれいな水によって生命のスイッチを入れ、優しいまなざしで見守り、発芽を祈る。
その種に爪楊枝を「突き刺す」という恐るべき発想。
「そんなことをして種は大丈夫なのか?」「種は死なないのか?」「種の内部にある、これから芽や根に育っていくいわば『内臓』を傷める危険性はないのか?」
そんな諸々の心配が頭をよぎるのですが、園芸の専門家諸氏によれば問題ないとのこと。
ただ私は植物に「癒し」を求めているというわけではないけれども、突き刺された状態の、痛ましい姿の種を毎日見るのはなんだか精神衛生上良くない気がして、別の方法を試みました。
その方法とは実にオーソドックスなもので、土の中に種の下3分の1ほどを埋めておくというものです。ま、ほとんど土の上に置いてあるといってもいいくらい。
そして土を乾かさないように1日に何度か水やりをします。
こんな風にして私のアボカド栽培が始まりました。
ベランダで育てている他の植物たちに、アボカドの種が仲間入りを果たしたのです。
1つの鉢に2個の種を植えました。
しかしながら、1週間たっても2週間たっても芽が出る気配はありません。
やがて種を覆っている茶色い薄皮が剥がれてきて、白い裸身が現れました。まるでピーナッツの薄皮が剥けるみたいに。
ただこれは種の成長による変化と言うよりも、風化に似た現象のように私には思われました。
そしてもうしばらくすると、こんどは種が縦にパックリと割れてきました。
これが発芽に向けての積極的な、前向きな変化なのかどうかは分かりません。
ともかく水やりを続ける以外に、種のために私にできることはないのです。
1ヵ月半ほどが過ぎた頃のことです。
私は発芽の望みを半ば捨てていました。
この頃には種の様子をまじまじと観察することもなくなり、他の植物に水をやるついでに種にも水をかけているといった状態でした。
毎日疲れ切って仕事から帰って来て、薄暗いベランダの植物たちに淡々と水をやる日が続いていたのです。
そんなある日のこと、昼間明るいところで種をよく見てみた私は驚きました。
なんと割れた種から、爪楊枝のような細い芽がシュッと伸びているではありませんか。しかも2個の種が同時にです。
アボカドが発芽するまでには時間がかかるとは聞いていましたが、まさか1ヵ月半もかかるとは。
バジルのように4〜5日で芽を出すような細かい種もありますが、種が大きくなるほど発芽までに時間が必要なのでしょうか?
芽を出した後のアボカドの成長は早いです。日増しに大きくなって、細い茎(というか幹)に似合わないほど大きな葉をしげらせます。
トロピカルな雰囲気の漂う、濃い緑の葉っぱ。
できれは地植えにして木登りできるくらいの大木に育てたいけれど、冬には雪が積もるこの土地では叶わぬ夢。
冬には部屋の中に入れて、春になったらまたベランダに出してを繰り返しながら、だんだん大きな鉢に植え替えていって・・・。
と想像しているうちに、いつか持ち上げられないくらい大きくなったらこのアボカドはどうなってしまうのだろうと、まだこの世に生を受けたばかりの幼い木の将来を案じてしまう心配症の私です。
「お前の将来の方がよっぽど心配だぞ」という気もするのですがね。