目次
- トラックの運転手同士がクラクションで挨拶してうるさい
- なぜトラックの運転手は挨拶をしたがるのか?
- トラック運転手の誤解を正す
- クラクションでの挨拶を撲滅させるために
- トラックドライバーだった過去の私の経験談
- おまけ(道路交通法からの抜粋)
トラックの運転手同士がクラクションで挨拶してうるさい
トラックやダンプカーの運転手が仲間の車両とすれ違う時にクラクションを鳴らして挨拶するのを見聞きしたことはありませんか?
私の職場の近くに最近トラックの配送センターができました。
巨大なセンターで、毎日様々な運送会社のトラックがひっきりなしに出入りしています。
そのせいかどうかは分かりませんがトラックのクラクションが頻繁に聞こえてくるようになったのです。
「パパーン」とか「パパパパパーン」とか「ブッ」とか「ババッ」とかです。
仕事をしながら「うるせえな」とか「やかましいわ」などと舌打ちすることが増えました。
正直に言って悩まされています。
下品な言葉が浮かんでくる自分に対する嫌悪も相まって、とても嫌な気分になります。
どうしてこんなに頻繁にクラクションを鳴らすのか?
危険を回避するためにやむを得ず鳴らしているのでしょうか?
だとすればなんと危険な国道なのでしょう?
いえ、実はなんの危険もありません。
交通量も少なく見通しも良い、真っ直ぐな田舎の国道です。
トラックの運転手たちは互いに挨拶するためにクラクションを鳴らしているのです。
なぜ挨拶だと分かるのかですって?
どちらかが「バババーッ」と鳴らすと他方が「ブブッ」と呼応しているからです。
見なくても分かります。
ただし挨拶のためにクラクションを鳴らす行為は道路交通法で禁止されています。
法律違反です。
あなた、法律違反です。
法律違反でーす!
なぜトラックの運転手は挨拶をしたがるのか?
私の個人的な想像では以下の通りです。
仲間との連帯感を求めている。
トラックドライバーというのは会社や営業所を出発すれば孤独です。
道路という戦場を独りで走り、戦わなくてはならないのです。
「おおげさな」と思われる向きもあるかと思います。
しかし時に知らない道を不安に駆られながら進み、指定された時刻に間に合うように荷物を届けなければならない。
トラックの巨大な図体は場面によっては扱いにくく神経をすり減らします。
そんな心理的なプレッシャーを抱えながら、肉体的な労働としての荷物の積み降ろしまでこなさなければならないのです。
これに対して「戦い」という言葉を当てるのはさほど見当違いとはいえないのではないでしょうか?
そんな孤独な戦いの場で同志に出くわした。
この時の心境は、さながら火星探検をしていて思いもよらず地球人に出会ったようなものでしょう。
「嬉しい」「仲間だ」「同胞だ」「ブブーッ」「ババババーッ」
こんな感じだと想像します。
だから会社に戻れば先ほどの相手と挨拶も交わさないということも考えられます。
ただの同僚のうちの1人。あるいはもっと言えば「嫌なヤツ」。
そんなことだってあるでしょう。
挨拶をしたいのではなく挨拶しているところを「見られたい」
先ほどは運転手を弁護するような、少し味方をするような立場で書いてみました。
ここから後は違います。
私の性格の悪さの本領を発揮するのはここからなのです。
運転手は挨拶したいのではなく、挨拶というパフォーマンスをおこないたいだけなのです。
このパフォーマンスを満足いくものにするには2つの要素が必要です。
1つは観客。
もう1つはパフォーマンスの「派手さ」です。
説明しましょう。
観客、すなわち付近を走行している他の車両、通行人、住人などがいない場所での挨拶はあまり意味を持ちません。
それは文字通り相手への挨拶そのものであり、それ以上でも以下でもありません。
そして挨拶そのものが目的であるのなら、すれ違うときに手を挙げるだけで事足りるのです。
もしくは小さく「プッ」と鳴らすだけでもパッシングすることでも目的を達成できるのです。
事実観客が誰もいない場面ではそのようにしている可能性もあります。
そしてもう1つのパフォーマンスの「派手さ」について。
これは言うまでもなくクラクションの音量と鳴らしている時間の長さに依存することになります。
「ババババババーーーバッバーーッ」と大音量かつ長時間鳴らすことがあるのはそのためです。
観客は一様に驚きます。
トラック同士の友情と交流は周囲の注目を集めます。
舞台の上でスポットライトを浴びる俳優さながらドライバーの表情にも歓喜の色が浮かびます。
道路はレッドカーペットと化すのです。
挨拶というパフォーマンスは成功しました。
大きな音を出したい、ストレスを発散したいという欲望
人は誰でも大声を出したい、大きな音を立てたいという欲求が本能的にあるのではないかと思っています。
海や山に向かって叫びたい。
太鼓でもドラム缶でも鉄板でもいいのですが、思い切りたたいて大きな音を出してみたい。
そんな気分になったことはありませんか?
特にストレスがたまっている時には大きな音を立てるとスカッとします。
しかし私たちは子供の頃から「静かにしなさい」「おとなしくしなさい」「じっとしていなさい」と躾けられてきました。
大きな音を立てると周りに迷惑をかける。
悪目立ちすることで何らかのリスクを負うことになるかもしれない。
そういった考えから私たちは目立たないように自分の殻に閉じこもるようにして、周囲との軋轢を生まないように生きてきたのです。
しかしここで手っ取り早く大音量を発生させ、かつ特段のリスクも負わないで済む方法があります。
それが「挨拶を装ったクラクション」です。
大音量についてはもはや説明の必要もありません。
重要なのは「挨拶」という免罪符によって運転手たちが守られているという事実です。
「挨拶をしないよりもした方が良い」という意見に異を唱える人はいないでしょう。
そう、挨拶とは肯定されるべき良いおこないなのです。
「仲間を大事にする」「人と人との絆」「敵意がないことの表明」こういった気持ちの宣言なのです。
だから私たちは「挨拶する心」に対して攻撃することができません。
クラクションでの挨拶は安全なストレス発散法なのです。
存在を主張したい。暴走族の迷惑走行と根っこは同じ
暴走族がやかましいエンジン音を響かせて走り回る理由は何でしょうか?
それは「他人に迷惑をかける快感」を得たいがためなのです。
普段私たちは人に迷惑をかけないようにかけないようにと気を遣いながら生きています。
常に自分を律することを忘れず、他者の目を意識して生きているのです。
そんな中、「傍若無人が許されない社会で傍若無人に振る舞っている自由なオレ」を表現しようとする人たちがいます。
暴走族です。
そしてもう御一方ここで紹介したいのが「挨拶クラクションで暴走するトラック運転手」なのです。
彼らはクラクションを鳴らしまくることで「他人に迷惑をかける快感」に震えています。
「どうだ、うるさいだろう?」
「ざまぁみろ、普通の乗用車では真似できまい」
「これがトラックの力だ」
「うらやましいか? トラックの運転手になってみろ」
暴走族が仲間同士でつるんで寂しさや疎外感を慰めあっているのと同様に、トラックの運転手もまた同じような心の闇を抱えて毎日を生きているのではないかと心配です。
トラックの運転手さんが迷惑行為ではなく善行によって自己表現する方法を模索しなければならないと思います。
私の考える「善行による自己表現」の例はこんな感じです。
横断歩道で停車して仔犬に道を譲る。
仔犬は安全に道路を渡り、しっぽを振って「ワン」と言う。
それを見た周囲の人たちは拍手をし、運転手に手を振って称賛の意を伝える。
どうでしょう?
まぁ、ちょっとふざけてしまいましたがあなたならどんな方法があると考えますか?
トラック運転手の誤解を正す
トラックは車体が大きいゆえに、それを操るドライバーがある種の有能感を抱くことは容易に想像できる。
その有能感がエスカレートしていくとやがて万能感という妄想に陥ってしまうこともまた想像可能です。
その万能感からは以下のような虚妄が導き出されないとも限りません。
自転車は小さいから小さい音でベルを鳴らすがトラックは大きいので大きい音でクラクションを鳴らすのが当たり前。いや、それが正義。
乗用車はただ走っているだけ。もっと言えば邪魔な存在。
トラックは仕事をしているのだから大きなクラクションも許容されるべき。
乗用車の運転手とトラブっても何も恐くない。
相手が車から降りてきて下から何か言ってきてもタイヤに向かって怒鳴っているだけ。トラックドライバーは遥か高みの運転席から見下ろしていて安全を脅かされる心配もない。
大型トラックのドライバーは大型免許を持っており、普通免許しか持っていない普通車のドライバーより偉い。凄い。立場が上。
牛丼の並盛より大盛の方が上なのと同じ。TOEIC300点より800点の方が上なのと同じ。シシャモよりマグロの方が上なのと同じ。
これらの考え、すべて間違ってます。
クラクションでの挨拶を撲滅させるために
この章では野蛮な「挨拶クラクション」をトラック運転手のみなさんにやめていただくために私たちがどのような活動をしていくべきかについて考えてみたいと思います。
啓蒙活動
まず1つ目は啓蒙活動です。
少し上から目線の偉そうな響きがなくもない「啓蒙」という言葉ですが、あえて使ってみました。
日本は街にゴミが落ちていないきれいな国だと言われることがあります。
それに倣って「音のゴミ」である不必要なクラクションも無くそうではないかという考えをもっと広く浸透させていければと考えます。
「クラクションで挨拶しません」ステッカーの導入
悪いおこないは目に付きますが善いおこないは誰の目にも留まりにくいものです。
そこで自分で善行をアピールすることも有効です。
考えてみれば気持ち悪い行為ではあるのですが背に腹は代えられません。
例えば
「法定速度で走行中」
「交差点を右左折するとき徐行します」
などのステッカーを貼っているトラックを目にすることがあります。
「そんなもん当たり前だろ、いちいち自分で言うな」ってあなたは思いますか?
私は思いますね。いちいち言うなって。
しかしその私が言うのも何なのですが「クラクションで挨拶しません」というステッカーを貼るトラックが出てきて欲しい。
クラクションで挨拶するトラックとそうでないトラックとを差別化した上で、自分は後者の方ですと宣言するのです。
この宣言を目にすることで大衆の意識に働きかけることが可能になります。
ドライブレコーダーとネットの活用
「人は見張られていなければ悪いことをする生き物だ」と考えなければならないなんてなんと悲しいことでしょう。
しかしこれは半ばは受け入れなければならない現実ではないでしょうか?
防犯カメラが町のいたるところで目を光らせている現代と50年前とでは人々の犯罪に対する意識が変化していることは明らかでしょう。
特に日本では「神様が見ている」のではなく「世間のみなさんに見られている」という意識が犯罪の抑止に力を持ったと考えられています。
ドライブレコーダーという名の監視カメラと「ペンは剣よりも強し」という言葉をお守りにしたネット上での告発。
これらの武器が理性に訴えてもご理解いただけない頑固なクラクションドライバーへの最後の切り札になることと思います。
互いに監視し合い、チクり合い、ネットで晒し合う世の中。
イヤですね、ほんと。
トラックドライバーだった過去の私の経験談
さて、ここまでクラクションを鳴らす運転手をやっつけるための文章を書いてきた私なのですが、実は遠い昔、そう今から四半世紀前にトラックドライバーをやっていた過去があるのです。
その時の私がどうだったのかについてちょっと述べてみようと思います。
ここで先に皆様に謝っておきましょう。
私もかつてクラクションを鳴らして挨拶していたドライバーだったと。
挨拶されたならば返事をしなければならないというのは人間社会の掟です。
その掟に私も従っていたのでした。
クラクションでの挨拶が習慣になっていくと、段々と自制のタガが外れていくのが自分にも分かりました。
そして何度かは大きな音で「パパパパパーッ」っと鳴らしてみたこともあるのです。
その時の背徳感と表裏一体の不思議な快感を今でも思い出すことができます。
大型トラックはまるで装甲車のように自分を守ってくれる堅い殻でした。
「何てことをしてしまったんだ、オレは」という自責の念とないまぜになった「これがトラックの特権だ」というような意識。
周囲の車両から顰蹙を買っているのは痛いほど分かっていながら「これは挨拶なんだよ」「大声で『こんにちはーっ』て言ってるだけだよ」という言い訳で自分を無理やり納得させていました。
にもかかわらず、クラクションでの挨拶を終えた後に襲ってくる虚しさと後悔の理由は何だったのでしょう?
仕事を終えて駐車場にトラックを停めた私は、飛び降りるほど高い運転席から地上に降り立ちました。
運転席のドアを閉めた私はあまりにちっぽけで、その小ささに打ちのめされました。
疲れ切った、プライドだけ高い、平凡な23か4ぐらいの小僧でした。
ほどなくして、まるで病から回復したかのように私はクラクションでの挨拶をしなくなりました。
「もう時効だから言うけど」というような言い方が好きではないので、過ぎた年月にかかわらずこの場を借りて謝りたいと思います。
私のクラクションで不快な思いをされた方、特定することはできませんが、本当に申し訳ございませんでした。
今は乗用車を運転していて他の車に道を譲ってもらったりした時に、昼間なら手を挙げたり会釈するなどして謝意を伝えます。
夜間は軽く「プッ」と鳴らすことはあるのですが、押す力が弱すぎて上手く音が出ないことがしばしばです。
「ありがとうボタン」と「ごめんなさいボタン」くらいはあったらいいのになと思いますが、世界のトヨタでさえそんな表示機能を採用しないところをみると、車と車とのコミュニケーションは必要ないというのが答えなのでしょう。
おまけ(道路交通法からの抜粋)
(警音器の使用等)第54条 車両等(自転車以外の軽車両を除く。以下この条において同じ。)の運転者は、次の各号に掲げる場合においては、警音器を鳴らさなければならない。
一 左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上で道路標識等により指定された場所を通行しようとするとき。
二 山地部の道路その他曲折が多い道路について道路標識等により指定された区間における左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上を通行しようとするとき。
2 車両等の運転者は、法令の規定により警音器を鳴らさなければならないこととされている場合を除き、警音器を鳴らしてはならない。ただし、危険を防止するためやむを得ないときは、この限りでない。
(罰則 第1項については第120条第1項第8号、同条第2項 第2項については第117条の2第6号、第117条の2の2第11号ト、第121条第1項第6号)