荒川光のブログ

Hikaru Arakawa's blog

平安時代にあこがれて古文の勉強を始めたよ

ひな祭り 扇子

 

やりたいことが多すぎて何も達成できない

このところまたやりたいことが出てきてしまって困っています。

それは何かって?

古文の学習です。

そう、あの古文です、昔学校で習った。

当時はチンプンカンプンで全然好きになれなかったのに、この歳になってまた勉強してみようとしているのです。

 

 

 

どうせまた三日坊主だろ? という声も自分の中から聞こえてくるのですが、そんな声はひとまず無視してやってみようと思います。

もうすでに参考書や古文関連の書籍を数冊買いこんでますよ。

 

2年ほど前から始めたプログラミングの学習も遅々として進まず。

漢字検定も2級から受けてみようと参考書を買ったもののそれっきり。

筋トレもそこそこ効果が現れ始めてきたところで頓挫。

英語も同様で、良さそうなアプリをスマホに入れただけで休憩中。

 

どれも止めたわけではないんですよ。一時中断です。また再開しますから。

いつかね。

 

さてそんな中、今度は古文ときたもんだ。

別に飽きっぽいわけではないのです。

プログラミングだって何だって飽きてはおりません。

それどころか本当はもっともっとやりたいのです。

でも他にもやりたいことが出てきてしまうんですね。

 

「実際にモノにならなくてもやっている過程を楽しめれば良い」などと考えているわけではありません。

どれも「モノにしてやろう」と本気で思って始めたのです。

でもモノになる前に他にもモノにしたくなることが出てきちゃうんです。

いやぁ、本当に困ってますよ。

 

何かを成すためには何かを捨てなければならない?

ベストセラーになったグレッグ・マキューン著「エッセンシャル思考」を以前読んだのですが、この本にはかなりショックを受けましたね。

 

「全部をやろうとするのではなく、何かを取り何かを捨てなければならない」

「『より少なく、しかしより良く』を追求する」

「あらゆる方向に1ミリずつ進むのではなく、これと決めた方向に全力疾走する」

「トレードオフを常に意識する」

 

こんな酷なことが説かれている本です。

確かに成功するためにはあれにもこれにも手を出すのではなく「選択と集中」が必要だということは理屈では分かります。

何かを得るためには別の何かを断念しなければならないという残酷なトレードオフがあることも理解できますよ。

 

でもね、私には無理なんです。

 

大谷翔平だって二刀流でやってるじゃないですか?

どちらかを捨ててはいないでしょ?

 

でも彼は英語でのインタビューには通訳をつけているし、水泳もスキーも上手でピアノも弾けるってわけではないでしょうね、多分。

だから二刀流であれ「野球」というスポーツだけに集中しているっていうことではエッセンシャル思考の人なのかもしれないですね。

まぁ、天才を引き合いに出しても意味がないことは重々承知していますけれども。

 

なぜ今、古文なのか?

源氏物語 手書き

 

ところでなぜ古文の勉強を始めたのかという理由をまだお話ししていませんでしたね。

これには昨今の話題を独占している ChatGPT が少し関係しているんですよ。

ChatGPT が私を半鬱状態にしているんです。

AI に仕事を奪われるという不安ではないですよ。

仕事が無くなるなら無くなるで別にいいんです。

それよりもっと気分が塞いでしまうのは学んだり勉強したりする気力が失せてしまうことなのです。

プログラミングなんかは AI の最も得意とするところでしょうよ。

もはや勉強する意味を見出しにくいジャンルではないですか?

現在の AI 以上の知識やスキルを持つエンジニアは別です。AI を作る側の人間だから。

でも AI 以下のエンジニアは必要なくなるし、プログラミングの勉強は勉強のための勉強、趣味としてのプログラミングということになるでしょう。

英語だって同様です。

つまり「仕事を奪われた」ということよりも「楽しみを奪われた」という喪失感の方が大きいのです。

脳トレとしてのプログラミングとか、思考の訓練としてのプログラミングという感じになってしまって、自分で書いたソースコードによってプログラムが動いたという喜びは無くなってしまいそうです。

AI に書いてもらったコードをコピーして貼り付ければできてしまうのですから。

 

「あーあ、人の楽しみを奪いやがって」という気分です。

 

そんな時にふと思いました。

「そうだ、平安時代へ行こう。AI なんて無かった古き良き時代に」

 

科学が進歩して過去に旅行できる時代が必ず来る。

タイムマシンだってどこでもドアだっていつか現実のものになるんだ。

その日のために古文を学ぼう。

紫式部に手紙を書いたり、清少納言と話したり、素晴らしい歌を詠んで賞賛を浴びたり。

そんな日のために平安文学を学ぼうじゃないか。

 

みんなはシンギュラリティに向かって走り続ければいいじゃない?

私は逆方向へ進むから。

 

とまぁそんなわけなんです。

 

 

 

タイムマシンの話はちょっと飛躍し過ぎですが、メタバース上に平安京を出現させることは可能ではないでしょうか。

平安マニアや平安オタクたちで集まって平安朝ごっこをして遊べますよね。

その時に私が光源氏になるために、源氏物語を原文で読めるようになっておかなければならないのです。

 

学んだことをブログに書いていこう

よく言われるのが学習の効率を上げるには学んだことをアウトプットするのが良いということ。

このブログを利用しない手はないですね。

日々の学びをブログで発信していこうと思います。

はたしてそんな記事を読んでくれる物好きがいるのかどうかは不明ですけどね。

自分のための備忘録、学習成果として積み重ねていければと考えています。

 

最終的な目標はネイティブの平安ピープルと同レベルの言語能力を獲得すること。

そうなった日にはこのブログも平安語で書きますよ。

平安人に向けてね。

 

でも心配しないで。

現代語訳も併記してあなた達にも読めるようにしてあげますから。

 

と思ったけど、そんなのは ChatGPT に任せればいいんですよね。

いとをかし