荒川光のブログ

炎上しない程度の過激発言! を目指しているのですが、出来上がった文章を読んでみるといたって正常で健康的です。ホッとするやらガッカリするやら複雑な心境です。

「骨の多い魚は食べるのが面倒くさいから嫌い」と言う人

骨の多い魚は食べるのが面倒くさいから嫌いだと言う人がいます。そして逆に、そんな面倒くさがりな人は嫌だという人も。

 

こんな会話が交わされるのは、妻や彼女が作った魚料理を夫や彼氏が食べるような場面で多いのではないでしょうか?

 

私自身はというと、その両方の意見それぞれに共感できる部分があり、どちらかに味方することができません。

骨の多い魚を食べるのは私も好きではありません。しかしそれを表立って口にすることには反対です。

 

魚を調理した側からすれば、骨が多くて食べにくくても、そんな困難をものともせずに喜んで食べてくれて、褒めてくれて、感謝されることを相手に期待するものでしょう。それを料理の味や栄養価や毎日同じものばかりだといった不満ならまだしも、「食べにくい」という本人のぐうたら根性から生じる理由で敬遠されれば良い気持ちがしないのは当然です。

 

しかし「骨の多い魚は食べるのが面倒くさいから嫌い」という人に対する反発心の原因は、それだけではなさそうな気がします。

 

もしかしたら魚を冒涜する気持ち、と言ったら大げさですが、生きている魚を殺めてその命をいただいているという意識が感じられないことが理由ではないでしょうか。

 

かくいう私もいつもその食材がもともと生きていた時の姿を思いながら食べ物を口にしているわけではありません。

今日食べられることへの感謝といった気持ちも常にあるわけではありません。

しかしまだ食べられるものを捨ててしまうことへの罪悪感だとか、食べたものを「マズイ」とか「おいしくない」と口にすることへの抵抗は常に感じます。

 

魚は人間に食べられることを想定して、食べられやすい骨の数や付き方をして生まれてきたわけではないでしょう。

それを勝手に捕まえて、包丁で切って、煮たり焼いたりして食べるのです。

それを思うと「骨が多いから面倒くさい」などという言葉は、それを作った人に対してというよりも魚に対して言えないなという気持ちになります。

 

たしかに食事をする時には安心して、ゆったりとした気持ちで、リラックスして食べたいものです。

ストレスを感じたり、不安になったり、血圧を上げたりするのは仕事の時だけで十分です。食事の時にはそんな感情から解き放たれて、くつろいだ時間を過ごしたい。

そんな時になぜ口の中や喉に骨が刺さったりする恐怖と闘いながら、口の中でモゴモゴと骨を探さなければならないのか?

そんな気持ちも理解できます。ただそれを口に出して言うのは上品ではないと思うのです。

 

 

これを書いていて、某メーカーのシュークリームを食べたときのことを思い出しました。

そのシュークリームはおいしくて何度か食べたことがあるのですが、一つだけ不満に感じていることがあるのです。

それはシュークリームを口に入れて噛んだ時に中のクリームが圧迫されて、嚙み切った部分の横からむにゅ~っとはみ出てくることです。それが口の周りに付くのがとても嫌なのです。場合によってはシュークリームのおしりの方からはみ出して手に付いてしまうこともあります。

 

それもこれも食べる技術の未熟さが原因かもしれないと食べるたびに工夫してみるのですが、なかなか上手くいきません。

はみ出たクリームを落とさないようにクリームを吸い込むようにして食べたり、噛むときに圧力をかけないように小さくかじるようにしたり、いろいろな方法を試してみたのですが満足する結果は得られませんでした。

 

そして私が思ったのは、このシュークリームは確かに大変おいしいが、食べるにあたっての苦労が多きすぎて、リラックスして食べられない。

流れ出たクリームを落とさないように、顔を斜めにして吸い付くようにして食べながら、しだいに怒りがこみ上げてきます。

「ったくめんどくせえな」なんて愚痴を言いながらなんで食べなきゃいけないのか?

 

このシュークリームのメーカーでは商品開発の段階で「試食」ということをしないのでしょうか?

それとも社内での力関係で、この商品の開発者に対して「No!」と言うことができないのでしょうか?

もしくは苦労させて食べさせることも、メーカー側の計算に基づいた戦略なのでしょうか? 例えば気になっている異性に対して、わざと冷たく接することでかえって相手の気を引こうとする女みたいに。

もしそうだとするならば残念でした。私はこのシュークリームはもう買わないことにしています。美味しく食べて満足したいからお金を払って買うのであって、不満を抱えたりムカムカするために買うわけではないからです。

 

魚は広く気持ちの良い海で泳ぐために生まれてきた。のかどうかは分かりませんが、少なくとも人間の食糧として命を捧げるために生を受けたわけではないでしょう。

だから魚に不満を抱くのはお門違いです。

「骨の多い魚は食べるのが面倒くさい」のですが、それは口に出さずに「魚に感謝して食べる」というのが私の流儀です。

 

そしてシュークリームのメーカーには、お客様相談室にクレームではなく貴重な(?)意見として、なんなら実名で食べた感想を伝えてもいいのですが、こう見えても私も忙しいので、たった一人の不買運動というやり方で抗議していく所存です。

 

それでは今日はこの辺で。

アドセンス広告をクリックされるという嬉しさと悔しさのジレンマについて考える

2ヶ月くらい前からグーグルのアドセンス広告を貼り始めました。

PC版とモバイル版ともに「記事上」「記事下」「フッター」の3ヶ所に貼っています。

多くはありませんがクリックも発生しています。しかし自分がアドセンス広告を貼る前には予想もしていなかった感情に少し戸惑っています。

今回はそんな自分自身の気持ちについて書いてみようと思います。

 

記事上広告 

 

まだ期間が短いため安定的なデータを取ることができていませんが、今までのところでは記事上広告のクリック率が結構高いのです。

しかしこれは素直に喜ぶべきことなのでしょうか?

クリックされると確かに嬉しいには違いないのです。クリックしてもらうために貼っている広告なのですから。しかし同時にちょっとしたさびしさも感じてしまいます。

なぜかというと、記事上広告をクリックされるということは、記事をほとんど読まずに離脱されたと考えられるからです。

もしそうだとすると喜びも半減してしまいます。その記事は広告に負けたということですから。広告の方が面白そうだと思われたということですから。

 

広告収入を得ることが目的で記事を書いている人なら、誤クリックだろうがひやかしだろうが、クリックさえされればそれで目的は達成されたのですから満足するのかもしれません。

しかし記事を読んでもらいたい、自分の意見を聞いてもらいたいと考えている人にとっては広告を踏んで離脱されるということは敗北に等しいことなのです。

 

気になった広告があっても記事を一旦最後まで読んで、また一番上まで戻ってきて記事上広告をクリックするなどということがあるでしょうか?

もしくはお楽しみの記事は後に取っておいて、まずは記事上広告のリンクから広告に飛んで、その後再び記事に戻ってくる。そんなことがあるでしょうか?

どちらもちょっと考えにくいことです。少なくとも私はやったことがありません。

だから記事上広告をクリックしたユーザーは、その記事は読まなかったと考えられるのです。

 

ブログの記事には2種類あって、1つはユーザーにとって役に立つであろう情報をシェアしますのでご覧くださいっていうもの。もう1つはユーザーの役に立つかどうかは別にして、自分の考えを伝えたい、自分の意見を主張したいという我欲のために書いている記事。

 

私の場合は上の2つの比率は1対9くらいかと思います。我欲の方が9ですよ。

ユーザーの役に立って喜ばれることが目的の記事であれば、記事本文が役立てばそれはそれでもちろん良いことなのですが、記事よりも広告を選んだユーザーにとっても、その広告と出会う機会を提供したということで、その記事はユーザーの役に立ったと考えることもできるでしょう。かなり強引な解釈ですが。

 

しかし私のように、ユーザーの役に立つかどうかよりも自己主張と自己顕示欲で書いているような記事の場合には、記事を読まずに広告をクリックされたとすれば、「広告に逃げられた」「広告に取られた、持っていかれた」という残念な気持ちは拭いきれません。たとえその悔しさと引き換えに10円ぐらいが手に入ったとしても。

 

ブログを運営している人は広告をクリックされることと「お金」を常にセットで考えることが習慣になっていると思います。しかしブログ運営をしていない人は、広告をクリックしたらどうなるかなど考えもしないのが普通でしょう。

単純に自分が興味を抱けばクリックする、興味がなければクリックしない、それだけです。自分のクリックがブログの運営者にたとえ小さくてもなんらかの影響を与えるなどということは意識しないことがほとんどだろうと思います。

そして世の中にはブログの運営などしていない人の方が圧倒的に多いのです(調べたことはないけれど)。

 

記事中広告

 

記事の中ほどに貼った広告もクリック率が高いとのことで貼っている人も多いですが、記事を読んでいる最中に広告に注意をそらされたくないという理由から私は貼っていないのです。

 

たとえば音楽を聴くとします。ユーミンでもコブクロでも誰でもいいので好きなミュージシャンを想像してみてください。

その歌が始まる前に広告が入る、あるいは終わった後で広告が入るというのならまだ我慢できますが、歌の1番が終わったところで15秒間の広告が入り、その後2番が始まるなどという構成になっていたとしたら聴きたいと思うでしょうか?

演奏者はリスナーの感情を揺さぶろうとしています。なのにその感情の高ぶりや流れを突然断ち切って、まったく別の広告という情報にリスナーはさらされます。そして15秒後に再び音楽の世界に戻ってくる。

そんなおかしな音楽体験をしたいと思うでしょうか?

 

テレビで放送しているドラマや映画でも途中でコマーシャルが入りますが、私たちがこれを我慢できるのは、おそらく昔から何十年にも渡って続いている儀式で、そういうものだと慣れてしまっているからでしょう。

それはもしかしたら慣れてしまってはいけないことなのかもしれませんが、テレビに去勢され、牙を抜かれた私たちは反抗してみる意思も湧きあがらず、それを当たり前のことだとみなしています。

コマーシャルをトイレに行ったり食器を洗ったりする時間だと考えている人だっているのです。

 

私の記事も、最初から終わりまで一気に読んでもらいたいというのが本音です。途中でよそ見されたくないし、いわんや広告の方がおもしろそうだなと目移りしてそっちに飛んで行っちゃったなんてことになれば、それは私の記事がつまらないからいけないのですが、正直に言って「振られちゃった」って気分でガッカリします。

 

「ユーザーに役立つ情報を提供する」ことが趣旨の記事ならそれでもいいと思うのです。ユーザーは必要なところだけを読んで必要な情報を入手できればいいし、それに関連した広告を見ることも必要な情報を得る一環だと思います。

ブログの運営者は広告と対立する必要はなく、いわば共存共栄の関係を築くことができるのです。

 

しかし私の場合は違います。広告はきつい言い方をすれば敵。ゆるい言い方をしてもライバルです。

 

「だったら広告なんて貼るなよ!」

そうなんです。その通り。広告を貼らなければいいだけなのです。

なのに貼る理由は何か?

答えは言うまでもなく明らかなので、わざわざ書き立てて記事の文字数を増やそうとは思いませんが、つまりは広告収入目当てですね。あっ、言っちゃった。

 

しかし私には収益とは別のもう一つの理由があるのです。

それは何かと言うと、私の記事にはアイキャッチの画像やイラスト、写真などがないため記事が殺風景なのです。アドセンス広告はそれらに代わって記事に色を添えてくれます。白黒の記事に華やかさがもたらされるのです。

 

記事に広告が出ていると、ちょっとプロっぽいというか玄人っぽいブログに見えます。

真っ白な画面に黒い文字で文章を綴るだけでも読んでくれる人はいると思うのですが、広告が出ていると記事に彩りが生まれるのです。私は広告にその効果を期待しています。

 

ブログに写真やイラストなどをなぜ載せないのか? という当然浮かんでくるだろう疑問に対してはこう答えましょう。

すなわち私の勉強不足、知識不足のためにまだそれらの作業ができないのだと。

きれいな写真で記事を飾りたいという欲求はもちろんあります。ヘッダー部分のデザインも個性的でセンスの良いものに変えていきたいと思っています。今後勉強して少しずつ改良していくつもりです。

 

記事下広告

 

記事が終わった後に現れる記事下広告はユーザーにとっても、また私にとっても最も害のない広告です。

記事を読む邪魔にもならないし、集中力の妨げにもなりません。

記事を読み終わった後にちょっと興味のある広告があったなら、覗いてみようかなという気持ちにもなります。

これが一番良いパターンだろうと私は考えます。

 

そんなわけで私の広告の貼り位置は「アイキャッチ画像代わりの記事上」「広告本来の目的としての記事下」「おまけのフッター」の3か所となったわけです(今のところ)。

 

 

 

それではこの辺で終わりにしましょう。

 

この後広告が表示されるはずですが、はたしてどんな広告が出るのやら。

できればこの記事を華やかに飾ってくれるような、そして読者の目を楽しませてくれるような、美しい海辺や100万ドルの夜景だったらいいなと期待していますよ、グーグルさん!

「ちがくない」という言葉づかいを絶滅させたい

誰しも好きな言葉や嫌いな言葉というものがあると思います。

私はとりわけ言葉の好き嫌いが激しいたちで、それゆえ日常生活でイライラしたり不愉快な気持ちになったりすることが多いのです。

今回は私の嫌いな言葉の中でも最も嫌いなものの一つ「ちがくない」を取り上げて、サンドバッグよろしくボコボコにぶん殴って日ごろの鬱憤を晴らそうと思います。

ここから後の文章はすべて私の個人的なグチになりますが、聞いてくださる心優しいあなたに期待して、遠慮なくグチらさていただきます。

 

まず初めにおうかがいしたいのですが、あなたは「ちがくない」という言葉づかいがあることを知っていますか?

私はそんな言葉を聞いたことがありませんでした。周りにそんな言葉づかいをする人がいなかったからです。

その言葉に初めてふれたのは、記憶ちがいでなければおそらくある歌の歌詞の中に出てきたときだと思います。

最初はそれを聞き違いかなくらいに思っていました。しかし何度も聴いているうちにそれが聞き違いではないことが分かってきたのです。

 

私はそのアーティストもその曲も好きだっただけに、この言葉づかいの発見はショックでした。

付き合っていた恋人に、私の倫理観では許容できない特徴を見つけてしまって苦しんだ、あの若かりし日を思い出します。

彼女をとがめる資格も、その勇気も私にはありませんでした。

私の器が小さいのだろう、私が女を知らなさすぎるのだろう、私の経験値が低いせいだろう。

さまざまな理由をつけて自分を責めるしかなかったのです。そしてそんな自己嫌悪を慢性的に抱かせる彼女に、しだいに憎しみを感じるようにもなってきたのでした。

 

っとまあそんな話は置いておきます。

「このアーティスト、なんでこんな頭が悪そうに見えるような言葉を使うんだろう。まったく残念でしかたない」と痛烈に感じたものです。

 

 

「ちがくない」とは一体どういう言葉なのでしょう? 

おそらく「違う」という動詞を形容詞的に活用させてこんな異形な言葉を作ったのでしょう。

ただ文法がどうだとか活用がどうだとかそんな難しい話は抜きにしても、異星人か地球外生命体が使うような気味の悪い言葉をどうして平気で使えるんだろうと、それが不思議でしょうがない。

そんなモヤモヤした日々を過ごしているうちに、今度はまた別のアーティストの歌詞においても「ちがくない」を発見したのでした。

そしてさらにさらに、また別のアーティストの歌詞でも「ちがくない」が使われている。

 

注)上記の3アーティストは実際には「ちがくない」とは歌っていませんが、「違う」を誤活用させることで勝手に作った言葉を歌っているのです。

 

一度この「ちがくない」に気付くと、次からは日常耳にする言葉の中に容易に同様の言葉を発見することができます。今までなら聞き流していた他人の言葉の中に、意外と「ちがくない」が多いことに気付くのです。

もしくは時を経るにしたがって、この言葉を使う人々が増えてきたためでもあるのでしょう。

 

批判を覚悟の上で正直な私の気持ちを言わせてもらうと、この「ちがくない」を違和感なく使える脳には欠陥があると思います。

「間違った日本語」だとか「文法の誤り」だとかそんな話ではなく、こんな言葉を使って平気でいられる神経を持った人間を、差別的な意味ではなく、欠陥人間だと私の中では定義しています。

 

確かに世の中には、ガラスを金属で引っ掻くような嫌な音を美しいと感じる感性を持ったニュータイプも存在するのかもしれません。その感性はもしかしたら才能でしょうか? いえいえ、脳の欠陥だと思います。

 

変わり者を排除しようなどという意図はありません。多様性はもちろん尊重します。

しかし例えば人を心身ともに傷つけることに快感を覚えるような人間や、残虐な行為を趣味とするような人間を、特異な感性を持った才人だとみなすことができるでしょうか? そういう人は病気の部類にあてはめて「ケアを必要としている人」と考えるのが妥当ではないでしょうか?

 

「ちがくない」をためらいなく使える人を欠陥人間とまで言うのは、これはちょっと言い過ぎかもしれません。しかし「ケアを必要としている人」であるとは思います。

このような人たちを、怒りにまかせて「美しい日本語を汚す害獣」とののしるのではなく、適切な治療で治してあげなければならないと思います。

 

 

言葉は時代とともに移り行くものだとはよく言われます。私たちが平安時代の人たちと同じ言葉を話しているのではないことは、ここで持ち出すまでもありません。

しかし「ちがくない」をたとえ世界中の人間が使うような日が来たとしても、これを言葉の変化として受け入れるなどということは私には絶対にできません。

 

辞書に「現在ではこの言葉づかいも一般的に用いられる」などと書かれる日が来たら、などと想像すると我慢できません。

辞書とは多くの人が使っている言葉の使われ方を記載するものではなく、正しい使い方を教えるものなのではないのですか? 前者の役割も辞書は担っているとの意見もあるようですが、納得しがたいものです。

 

時代の流れとともにこの忌まわしい言葉が悪疫にように蔓延して、やがては日本語が宇宙人の言葉に取って代わられてしまうのでしょうか?

 

私には力はありませんが、夢を語ればこの馬鹿げた言葉を駆除し、駆逐し、絶滅させたい。

私はたった一人でも闘います。それは実にちっぽけで、勝ち目のない闘いかもしれません。たとえ世界中の人間が「ちがくない」を使っても、私だけは意地でもその言葉を使わないというささやかな反抗にすぎないのですが。

 

だれか影響力のある人が、この言葉の愚かしさを力強い説得力のある言葉で証明してくれないものでしょうか?

 

これを読んでくださっているあなたも、一度声に出して言ってみてください。「ちがくない」と。

ほんっとうに気持ちが悪い。何だ? この言葉は。私は吐き気がするくらい大っ嫌いです。こんな言葉を使う人とは絶対に友達にはなれないと思うくらいに嫌ですね。

と感情的には思うのですが、その考えは良くないよと自分をたしなめるもう一人の自分もいます。

私の言葉づかいも別の人にとっては虫唾が走るほど嫌な場合だってあるかもしれませんしね。

だから昔の賢人が言ったように「寛容の精神」がここでも必要ってことでしょうか?

 

 

それではこの辺で。

個人的な愚痴に最後まで付き合ってくださってありがとうございました。

 

冒頭で「ボコボコにぶん殴る」なんて威勢のいいことを叫んだ私でしたが、結局のところビビりながら恐るおそるつぶやくのが精いっぱいでした。

「この臆病者!」

イヤホンを今までの20倍の価格のものに替えたら音楽の感動も20倍に!

iPhoneで音楽をよく聴くのですが、先日イヤホンを壊してしまいました。

そこで新しいイヤホンに買い替えることにしたのですが、どうせなら少し良いイヤホンに替えてみようと思い、思い切って今まで使っていたイヤホンの20倍もする価格のものに買い替えることにしたのです。

 

などとびっくりさせるような書き方をしましたが、実を言うと今まで使っていたものというのが100円ショップで購入したものだったのです。正確に言うと108円ということになります。

今回購入したものは1980円なので、概ね20倍。ね、嘘ではないでしょ?

 

そうは言ってもイヤホンに1980円。これを高いと感じるか安いと感じるかは人それぞれだと思いますがみなさんはどうでしょうか?

 

私は音楽が好きでロック、ポップスからレゲエやサルサ、クラシック、ジャズまで何でも聴きます。ですのでイヤホンは重要なのです。

 

世の中には1980円どころかその更に20倍の40000円なんていうイヤホンまであるのですよ! そして高級なイヤホンはやはり音も良いと聞きます。

しかし私には40000円はさすがに手が出ません。1980円のイヤホンをレジに持っていくのでさえかなりの勇気が必要だったのです。

実のところ100円のイヤホンでも満足はしていたのです。慣れてしまえばその音が普通になるものです。

 

そんなわけでまた100円ショップでイヤホンを買おうとも考えたのですが、「良いイヤホンは音質が良い」とよく耳にしていましたので、一度聴き比べてみたいという欲求に抗えず、買ってしまいました。

 

今回購入したのは ELECOM EHP-CN100APNBK です。

 

それでは新しいイヤホンで聴いてみた感想をお伝えしましょう。

100円イヤホンとの違いは歴然としています。

大きな違いは3点

 

1 ドラムとベースギターの音がよりハッキリ、クッキリと聞こえる

100円イヤホンよりも重低音を強調した音の出方になっています。しかしただ重低音が大きく聞こえるということではなく、音色まで聴き分けられるようになりました。ドラムのたたき方の強弱までハッキリと伝わってきます。

シンバルの「シャーン」という音も、今まではただ鳴っているなというくらいで聞こえていたのですが、新しいイヤホンで私はシンバルの音の美しさに気付かされました。なんと清潔な澄んだ音なのだろうと。

また、鳴っているシンバルを手で押さえてパッと音を止めるのかどうか技法的なことはよく分かりませんが、「シャーン」という音が徐々に小さくなって消えていく時と、途中でパッと音が途絶える時の違いまで分かります。1つの楽曲の中でシンバルの音の存在感がとても大きくなりました。

ベースの音も、100円イヤホンでもそれなりに満足して聴いていたのですが、新イヤホンではもっと色鮮やか音の違いが楽しめます。「ブンブンブンブン」と4つ鳴ったとしたらその4つの音それぞれに個性があることに気付くという感じです。

 

2 こんな音が鳴っていたの?

100円イヤホンでは聞こえていなかった楽器の音が聞こえてくる。こんな楽器が使われていたの? こんな音が鳴っていたの? という驚き。

大げさに言うと、今までモノクロで見ていた写真をカラーで見たかのような違いがあります。

 

3 ヴォーカルの声にツヤがなくなって少しくすんだ声になった。

ミスターチルドレン桜井の声が私は大好きなのですが、彼の声はなんと100円イヤホンで聴く方が良く聞こえるのです。

これは一体どういうことなのでしょう。他の楽器がその存在感を高め、鮮やかに咲き誇っているというのに、それに比してヴォーカルの魅力が十分に発揮されていない。100円イヤホンでは艶やかで伸びのある桜井さんの声が、これも大げさにいうと曇りガラス越しに見た風景のように精彩を欠くようになったではありませんか。あくまでも大げさに言うとですよ。

それとも良いイヤホンから聞こえてくるこの声こそが、彼の本当の声だったとでもいうのでしょうか? ごまかしが効かなくなって、本性を現したとでもいうのでしょうか? 古いブラウン管テレビの画面では見えなかった美人女優の毛穴の開き具合が、今の画面では見えてしまうようになったのと同じように。

サザンオールスターズ桑田のような低音かつハスキーヴォイスの場合はどうかといいますと、不思議なことにこれもまた100円イヤホンに軍配が上がるのです。

理由は分かりません。いろんな曲で聴き比べをしてみましたが、多くのケースでヴォーカルは100円イヤホンで聴く方が良いようです。

100円イヤホンと新イヤホンとで違いがあまり感じられなかったのは椎名林檎とゲスの極み乙女。でした。

まったく理由は分かりません。私の耳に問題がある可能性の方が大きい気もします。あくまで私個人の感想ですので、異論反論のある方はどうぞお許しください。

 

 (追記)

どうやら私の耳がおかしかったのか、または酔っていたのでしょう。今聴いてみると、どの曲をどう聴いたって新イヤホンの方が良く聞こえます。

そりゃあそうですよね。桜井さん及びファンの方、ごめんなさい。

 

それにしてもイヤホンの違いで音がここまで違ってくるということは大きな発見でした。

今まで誰かと同じ曲を聴いて「あの曲いいね」とか「そうでもないよ」などという会話をしたことが誰しもあると思うのですが、そもそも同じ音を聴いていないという可能性が大いにあるのです。

コンサートホールで生の演奏を聴くといった場合でも、アンプやイコライザーやらで調整された音がスピーカーから出てきたものを聴くわけであって、肉声を聴いているわけではありません。つまり私たちは本当の声、本当の音というものに触れることができないということです。

だから何? と言われてもだから何というわけではないのですが、ちょっと気付いたことなので記しておきました。

 

今回私が購入したイヤホンには左右(L/R)の表示がありません。100円イヤホンには「L」「R」と書かれていますのでどちらの耳にどちらを付ければ良いのか分かるのですが、新イヤホンの場合は分からないのです。

私が知らないだけで左右両用のイヤホンというのがあって、どちらに付けてもいいものなのだろうか? とも考えました。しかし、左右で出てくる音が違います。

「この曲のイントロ部分は右側から先に音が出るようになっている」とか「この曲のこの部分ではこの楽器は左側で鳴るようになっている」などと決まっているのに、左右のイヤホンを逆に付ければ音の出方が逆になってしまうではないですか。

一体どうして左右の表記がないのか知りたいものです。

とりあえず私は、左右で音の出方に特徴のある曲をまず100円イヤホンで聴いて左右の区別を付けてから、今度はその同じ曲を新イヤホンで聴いて左右を特定し、サインペンで「L」「R」と書き込むという手段を取りました。まったく面白いイヤホンですね。

 

(追記)

後で調べてみたところ「スピーカーの左右確認用音声信号」の動画を無料で公開してくれているサイトを見つけました。

この信号音をイヤホンで聞けばどちらが左右か一目瞭然というか一耳瞭然です。ありがとうございます。

また左右両用スピーカー/イヤホンなどというものもどうやら無さそうです。

 

私は新イヤホンを気に入っているにもかかわらず、以前使っていたのと同じ100円イヤホンも再び購入しました。

私はランニングをしたり自転車に乗ったりもするので、その時は100円イヤホンを使うためなのです。

理由は走っている最中に必ずコードを引っ掛けてしまうからです。どんなに細心の注意を払っていても必ず腕や膝やハンドルなどに引っ掛けてしまうのです。何度も引っ掛けてコードが引っ張られたりすると壊れてしまいます。

100円だから壊れてもいいというわけではないけれども、身体活動時には100円イヤホンを付けることにしています。

 

余談ですが、イヤホンのコードっていうのはどうしてあんなにブラシと仲が良いのでしょうか? 髪の毛を整えるブラシのことですよ。まるで磁石のS極とN極みたいに仲良しで、ちょっと目を離すとすぐに絡み合っているのです。しかも誰かが嫌がらせでわざと絡ませたのかというくらいに複雑に。

丁寧にソ~っと取らないとイヤホンを傷めてしまいますね。

いつかはワイヤレスイヤホンを使ってみたいと思っています。

デンタルフロスを初めて使ってみて感激した!

私はかなり丁寧に歯を磨く方なのですが、デンタルフロスというものを使ったことが一度もありませんでした。

 

使わなかった理由は、私の歯は隙間なくキッチリと生えているため、歯と歯の間に糸を通すことができないだろうと思っていたからです。また歯と歯の間に空間が無いわけですから、そこを磨く理由も無いのです。

 

歯の根元の方には確かに空間があります。例えば前歯であれば、歯茎の部分を底辺とする三角形状の小さな隙間が空いています。

しかし私の場合はその隙間をデンタルフロスで磨くことができません。その隙間を形作っている二本の歯はピッタリとくっついているため、弓状のデンタルフロスの糸を歯と歯の間に通して、その空間に到達させることができないからなのです。

そのように以前の私は考えていました。デンタルフロスというのはいわゆる「スキッ歯」の人だけが使えるものだと。

ですので、その小さな三角形部分を磨くためには、私は歯ブラシの毛先を差し込むという方法を取っていました。

 

ところが最近歯の健康についての情報をいろいろ見ていると、デンタルフロスが非常に有効だということが言われています。

そこで一度ダメ元で挑戦してみようという気を起こしたのです。たとえすべての歯と歯の間に糸を通すことができなくても、一か所でも二か所でも通すことができれば良いではないかという気持ちにもなりました。

 

結果としては、私は前歯から奥歯にいたるまでのすべての歯と歯の間に糸を通すことができたのです。

これは非常に驚きでした。

確かにすんなりと糸は通ってくれませんでした。ノコギリのようにギコギコやってみたり糸を当てる角度を変えてみたりと多少手を焼いたりはしたのですが、その甲斐あってついに糸が通ったときの喜びは格別でした。

そして一度糸を通すことができると、次からはもっと容易に通すことができるようになります。

 

もしかしたら私の歯茎が歯肉炎か歯槽膿漏かで弛んでいて歯が動くために、歯と歯の間を押し広げることができたのではないかという懸念もあります。

しかし素人判断にはなりますが、私の見立てでは歯茎はいたって健康で、グラグラしたりもしていません。

ですので見た目にいかにも糸など通りそうにないように思える歯と歯の間であっても、糸は通るものなのでしょう。

 

デンタルフロスで歯を磨くと今までのブラッシングでは感じたことのないサッパリ感を得られました。それはもう、快感と言えるレベルです。

 

もし私と同じような理由でデンタルフロスの使用に二の足を踏んでいた方、あるいは元々まったく関心のなかった人も、この記事を読んでくださったことを機会にぜひ一度試してみてはいかがでしょうか? 感激もののサッパリ感を味わっていただきたいです。

今まで面倒くさいと思っていた歯磨きがとても楽しいものに変わるかもしれませんよ。

 

歯や歯茎の健康はとても大切で、歯周病が糖尿病や心筋梗塞の発症リスクを高めるとか、糖尿病が今度は認知症のリスクを上げるなどの報告もあるようです。

 

最後に、デンタルフロスを初めて使う人に注意していただきたいことは、糸で歯茎を傷めないようにということです。

歯茎は皮膚とは違って柔らかいです。そして糸は強く細いので、歯茎に圧力を掛けすぎると傷めてしまいます。

特に歯と歯の間を通すために糸に力を入れたり、バイオリンを弾くように糸を動かしたりしていて急に糸が通ったりすると、その勢いで歯茎を切ってしまいかねません。

糸で茹で卵を切るように歯茎だって切れてしまいますので、お気を付けて。

銀行のATMの音声案内がせっかち過ぎる

銀行のATMで、振り込みなどのちょっと込み入った手続きをするとき、操作に時間がかかり過ぎて音声案内に急かされやしないかといつもドキドキします。

そして機械に急かされるという屈辱に耐えられない私は、つい慌てながら作業するのが常なのです。

 

通帳やカード、振込先の詳細が書かれたメモなど、手続きに必要なもの一式をあらかじめ準備してから機械との闘いに挑むのですが、それでも敗北を喫することがしばしばです。

 

銀行のATM以外にも、機械との闘いの場は近年急速に拡大してきています。スーパーの機械式レジや、セルフ式のガソリンスタンドなどなど。

 

それにしても思うのですが、機械の音声による「急かし」がちょっと早すぎやしないでしょうか?

 

私のように認知機能の衰えもまだ顕著ではなく、指先の動きもピアニストには及ばないものの、パソコンのキーボードくらいは打てるという人間が、準備万端で挑んでも急かされてしまうのです。

これがお歳を召した方や、その機械と初めて対話するという方だったなら、なおのこと勝ち目はありますまい。

 

振込先を入力しようと、あいうえお順に最初の一文字を探している間にもう急かしてくるのです。「振込先を入力してください」と。

今まさにその操作をしようとしているときに急かされたらどんな気分になりますか?

「別に何とも思わないよ」という方もいらっしゃるのでしょうか?

 

私などはその「急かし」に我慢できず、一度「うるせえ」と機械に向かって怒鳴りそうになってヒヤッとしたことがあります。

すんでのところで声は出さなかったので助かりましたが、自分で自分の感情に驚きました。

 

「オレ相当疲れてんのかな」

「何イライラしてんだよ、みっともねえ」

「大人になれよ」

自分を責める言葉の数々が頭の中を駆け巡り、体がカーッと熱くなりました。

 

でも私にも多少の言い分はあるんです。

いちいちうるさいんですよ、機械が。そしてせっかち過ぎるんです。

 

もし相手が機械ではなく人間で、例えば銀行の窓口にいる銀行員が、このせっかちな機械と同じ対応をしてきたならどう思いますか?

お金を財布から出して、カウンターの上のトレーに今まさに置こうとしている矢先に「お金を置いてください」と言われたなら。

「今置くよ、うるせえな」とならないでしょうか? 実際には口に出さないにしても。

 

しかし人間の銀行員はこんな対応は決してしません。客がお金を置こうとしていることは見れば分かるからです。

 

つまり私が言いたいのは、機械にも将来的には人間の銀行員のような対応を目指してほしいということです。

客が今何をしようとしているのかを見抜けと言いたいのです。そんなこともできないのならいっぱしの口を利くなと。人間様の言葉をしゃべるなと。

 

 

 

ところが先日ある事件が勃発して私は考えさせられました。それはあるコンビニエンスストアで起きたのです。

 

私はいつものように自分の愛飲している500円くらいの赤ワインとその他何点かの商品を、買物カゴに入れてレジに持っていきました。

若い男の店員が、商品のバーコードを順番に読み込んでいきます。

そして次はいよいよ赤ワインのバーコードが読まれる番なのです。

私は右手の人差し指を、タッチパネルにタッチするために構えました。タッチパネルに20歳以上かどうかを問う画面が表示されることを知っているからです。今までに100万回もタッチしてきた画面です。

 

私は店員に「画面タッチをお願いします」と急かされるのが嫌なのです。それに店員も客にお願いをするのは面倒くさいだろう、私から率先して画面タッチすれば清算はスムーズに進むだろうという、私なりの気遣いもあるのです。

 

客の中には画面タッチを拒み、「20歳以上かどうか見れば分かるだろう、オレが子供に見えるか?」と店員に盾突いたりする偏屈者もいるのです。

 

私は違います。

法律を遵守し、礼儀をわきまえ、店員への敬意を持った客として、爽やかな画面タッチをすることを旨としているのです。

 

私は黄金の人差し指を、わざと店員の目に見える位置で立てました。

画面は「私に触れて」とささやきました。

その時です、店員が言い放ったのは。

 

「画面タッチをお願いします」

 

 

 

家に帰って赤ワインを飲みながら私は考えました。

店員にとっては、客の行動を見て画面タッチをお願いするかどうか判断することの方がよほど面倒くさいことなのだろうと。

どんな客に対しても、どんな状況に際しても「画面タッチをお願いします」と機械的に言う方が楽なのだろうと。

 

「楽をする」というと悪い言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、つまり「仕事を効率化させる」ということに彼は成功していたのです。

蟻の行列のように毎日やって来る客に対して、最小の労力で業務を遂行するためには機械的に作業をこなすということが一つの答えに違いありません。

 

結局、機械は人間を目指し、人間は機械を目指しているということでしょうか?

 

こうなったからには、私も「機械の客」になることを少し考えてみた方が良いのかもしれませんね。

銀行で振込みをするロボット。コンビニで買い物をするロボット。

ロボットならストレスを感じることもありません。

 

でもそれならば、自分の「人間」や「人間性」を存分に発揮できる場はどこなのでしょう? その機会はいつなのでしょう?

 

その答えはちょっと恥ずかしくて言えませんが、私の中で、もう答えは出ています。

佐々木隆宏著「インド式 超速★計算術」を読んで実際にやってみた

まえがき

 

インド式計算術というのが一時期話題になりました。少し興味はあったのですが、どんなものなのかよく知らずに最近まで過ごしてきたのです。

ところがタイトルにも記した本をブックオフでたまたま見つけた私は、108円という値札にも助けられ、購入を果たしました。

 

インド式計算術にも様々な流派というかスタイルがあるのかもしれません。この本で紹介されているやり方がスタンダードなのか亜流なのかも知りません。ただどんなものなのかちょっと覗いてみようといった好奇心から本を手に入れたのです。

 

私は小学生の頃から算数が苦手でした。そんな私にこの暗算法がマスターできるのか? という疑問もありましたが、もしマスターできればちょっとした特技として自己PRに使えるゾという下心もありました。

 

「計算機で一瞬で答えが出ることを暗算でやる意味」というような議論はちょっとおいておきましょうよ。それよりも57×53をパッと答えることができたら、これ、結構凄いことですよね。やれたら面白いですよね。

 

算数が苦手だった私と心の傷(ちょっと大袈裟ですね)

 

算数が苦手だったと言いましたが、そろばん(懐かしい!)も習っていた私は純粋な計算は苦手ではなく、むしろ得意なほどでした。因数分解や幾何学だって得意とまでは言えませんが好きではあったのです。では算数の何が苦手で嫌いだったかというと、それは文章問題なのです。

 

例えばこういう問題がありました。

水槽に水が入っていて下の蛇口から水が流れ出しているのに、それを上回る量の水を上から加えることで水槽を一杯にしようとするのです。そしてそれを成し得るまでに要する時間を求めなさいといった問。

 

「水が漏れてんねやったら止めろや!」という言葉で頭の中がいっぱいになりました。

与えられている前提条件にすぎないことは分かっているのですが、理性では分かっていても心が受け入れることを拒むのです。

私はこんな愚かな問題を解く気にはなれませんでした。

 

放課後に算数の理解に乏しい生徒が集められ、「算数病院」と名付けられた勉強会が開かれました。もっと簡単に言えば私たちが居残りをさせられて、先生が算数の復習をしてくださったのです。

私は担任のこの女の先生が好きでした。しかし私は「算数病院」という呼び名を受け付けることができず、先生の引き留めにソッポを向いて帰宅したのです。

 

算数病院。今のご時世なら父兄によってはちょっとした問題にするかもしれません。

もちろん 先生には何も悪気はなかったことでしょう。それは当時の私にも分かっていました。でも私は頭の病気扱いされたことが子供ながらにショックで、「通院」しなかったのです。

大人げないとは思ったのですが、まだ私は子供でしたので。

 

おまたせしました、本の中身紹介

 

では本の内容についてです。

この本では2桁以上の掛け算や、足し算、引き算、割り算のやり方が解説されています。

ただここでは実際の計算のやり方については割愛いたします。ご興味のある方は書籍にあたられるなり、ネットで検索されるなりしていただければと思います。

 

私が本を読んで実際にやってみた感想は「なるほど、これは私にもできる」というものです。

例題、たとえば34×36という問題があり、解き方の説明があります。そしてその後の練習問題を何題か解いて理解を深めるのです。

 

先ほどの34×36は「10の位どうしが同じ数字で、1の位どうしを足したら10になる場合の掛け算」です。

また46×66のように「1の位どうしが同じ数字で、10の位どうしを足したら10になる場合の掛け算」というものもあります。

 

この他にも

「×5をする場合には×10をしてから半分にすれば簡単に解ける」

「23×98の場合には、98にはあと2を足せば100になるのだから、23×100をまず計算して、そこから23×2を引けばいい」

などなど計算する数字によっていくつもの攻略パターンがあります。

 

それぞれのパターンでの計算方法を身に付けて、数字を見た時にはどの計算パターンにあてはめれば良いのかを見極めることが必要です。

 

ただやり方を覚えただけでは実際の場面での活用は難しく、十分な練習を積むことでどんなケースにも対応できるようにしておくことが大事だと思いました。

 

途中までおこなった計算結果を一旦記憶しておいて、後でそれを取り出して活用する場合があるので、最近よく耳にする「ワーキングメモリー」といわれる能力が必要です。この能力が著しく欠落していると紙などに数字をメモしておかなければならないため、それはもはや暗算とは呼べません。それをするなら普通に今まで通りの筆算をすればよいという話になってしまいます。

練習を積めばワーキングメモリーは鍛えられるものだと思いますし、ちょっとした脳トレになるかもしれません。

頑張って一生モノの技術として身に付けたいものです。

 

数日間取り組んでみて

 

「一生モノの技術として身に付けたい」などと宣言した、その舌の根も乾かぬうちにこんなことを言うのも気が引けるのですが、私はこの素晴らしき暗算術を放棄する意思を固めました。

 

確かにマスターすれば日常生活を送る上で良いことは少なからずあるとは思います。しかし費用対効果(というか時間対効果)を考えるとあまり触手が動かないのです。

女の子の前で披露する機会があったとしても「すごーい」とは言われるかもしれませんが、モテたりするほどでもないでしょう。

それだったら筋トレをして肉体の完成度を高めるとか、ヴォイストレーニングをしてカラオケを上手に歌えるようになる、などの方に時間を使いたいですね、私は。

 

それとも私のやり方に何か間違いがあったのでしょうか?

「そんな難しいものじゃないよ」

「もっと簡単に習得できるものだよ」

「元々の頭が悪いからできないんだよ」

などの声も聞こえてきそうです。

 

もし身の周りにこの技術をマスターした人がいて、それを目の当たりにする機会があったなら、尊敬の念を込めて賛辞を送りたいと思います。私が成し得なかったことを彼は成し遂げたのですから。

純粋な好奇心に駆られて無我夢中に、あるいは女の子にモテるなんて誤解から必死で、頑張ったに違いないのです。

天晴!

 

あとがき

 

実際に計算問題を解きながら、数字っておもしろいなってつくづく思いました。

数字って何なのでしょう? 単純にして複雑。氷のように綺麗で、冷たくて、非人情的なものに私には思えます。

 

リンゴが3個あったとして、そこからリンゴという味や色や重さのある物体を取り除き、単に3という記号として考えるというようなことでしょうか?

そしてその数字を足したり引いたり、掛けたり割ったりすることで、まるで一本の糸が様々に形を変えるあやとりのように、何かの意味を持つようになる

 

私には学が無いので、ポヤーっとした頭で支離滅裂な思考の断片を思い浮かべるのみですが、数学っていう学問にはとても魅了されます。ベートーベンの音楽やピカソの絵みたいに。

 

「数学を極めたい」「天才数学者になりたい」なんておかしな妄想にふけってしまいました。1分間ほどね。 

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