荒川光のブログ

炎上しない程度の過激発言! を目指しているのですが、出来上がった文章を読んでみるといたって正常で健康的です。ホッとするやらガッカリするやら複雑な心境です。

飲食店が運転代行を呼ぶ上で注意したいこと6つ

アルコール類を提供する飲食店は、かつては客が店内にいる間だけ客の対応をしていれば良かったのですが、時代は変わりました。

今では飲んだ客の帰りの手伝いまでしてやらなければならなくなったのです。

飲食店の客が自分の携帯電話から直接代行を呼ぶ場合はよいのですが、飲食店の店員に代行を呼んでくれと頼む客も多いのです。

ほとんどの店では客の依頼に答えて代行を呼ぶと思います。タクシーを呼ぶのと同じように。

しかし、数ある代行会社の中の任意の1社に電話をかけて、呼べば終わりではありません。タクシーと違って運転代行を呼ぶにはいろいろと面倒くさいことが多いのです。

 

今回は飲食店側からの目線で運転代行について書いてみようと思います。

 

運転代行は呼んですぐ来るとはかぎらない

 

運転代行はタクシーと違って呼んですぐ来るとはかぎりません。日によって、あるいは時間帯によっては1時間以上待たなければならないこともあるのです。

 

「代行を1台呼んで」と頼まれた店は、通常普段呼ぶことの多い代行会社の中から1社選んで電話をかけます。そこで代行会社から「20分でお伺いします」と言われたとしましょう。しかし「ではお願いします」と店員は即答できないこともあるのです。

 

店員は電話を保留にしたまま客のところへ行き、「20分で来るそうです」と伝えます。客がそれでいいと言えばその代行を頼みます。しかし客によっては「もっと早く来てくれる代行を探してくれ」という人もいるのです。

 

店員はいったん電話を切り、他の代行会社をあたります。もっと早く来れる代行会社、例えば10分で来れるというような会社を見つけられればよいのですが、どこの会社も20分かかるとすると、客にその旨を伝えに行かなければなりません。

客が「それでは仕方がない、20分待つよ」と言ったら店員は最初に電話をした代行会社にもう一度電話をかけて20分待つので来てくださいと頼むのです。

 

しかし代行会社にはひっきりなしに予約の電話がかかってきています。5分たてば配車できる車の状況が変わることはよくあります。そんな時に店と代行会社とで軽いトラブルが発生することがあります。

「さっき20分で来れると言ったじゃないか」という店員と、「さっきの時点では20分でしたが他から依頼が入ったので、今でしたら30分お待ちいただくことになります」といったやりとりがおこなわれます。

 

店員はあきらめて2番目に電話した代行会社にかけなおします。その会社の車が20分で来てくれればよいのですが、そこでももっと待たされるとなると飲食店としてはたまったものではありません。

しかも飲食店は料理を作ったり、運んだり、食器を洗ったり、会計をしたりするのがメインの仕事なのです。忙しい時間帯に代行を呼ぶなんて雑用に時間を食われている暇はありません。

 

しかし今私は「雑用」という言葉を使いましたが、ここ数年の飲食店の状況を見ていると、代行を呼ぶ仕事は決して雑用ではなくなってきています。いかにスムーズに代行を呼んで客を気持ちよく帰らせるかということは、店が客に提供するサービスの中で大きな位置を占めるようになってきました。

また逆に代行を上手く呼ぶことができず客にストレスを与えてしまうと、せっかく心地良い時間を過ごしてもらおうとした店の努力が台無しになってしまうこともあるのです。代行で不愉快な気分になったことを理由に「この店にはもう来ない」とまではならないと思いますが、店で過ごした楽しい気分に水を差すことになるのは間違いないのです。

 

店は代行を呼ぶ作業が短時間で間違いなく済むようにいろいろな工夫をしていると思います。あらかじめ客から何分以内に来る代行なら呼んでいいか、上限の時間を確認してから電話するのが効率が良いでしょう。

 

代行料金は会社によって違う

 

タクシーと異なり代行料金は一律ではありません。各代行会社によって料金は違います(*注 平成29年10月現在の情報です。料金を一律にしようという動きもあるようです)。

店が代行を呼ぶ場合、早く来てくれることを優先させると料金の高い代行が来ることがあります。店としては代行料金が高かろうが安かろうが関係ありませんが客は違います。同じ店から自宅まで帰ったのに、前に帰った時よりも高いと清算時に文句をいう客が時々いるのです。また高い代行を呼んだ店を逆恨みする客もいます。

このようなことがあると、その客が次回から店に代行を頼む時に「安い代行を頼んでくれ」とか、「○○代行以外にしてくれ」などと条件をつけることがあり、店としては選択肢が狭まり、仕事がしにくくなるのです。

長くお店をやっていていくつかの代行会社と付き合いがあれば、ある程度代行料金の違いも分かってくると思います。しかし運転代行なんてものがなかった時代であればこんな労力は必要なかっただろうにと店を気の毒に思うこともあります。

 

余談ですが、基本的に安い代行会社は待ち時間が長いことが多いです。そしてたった数百円安く済ませるために1時間も余計に長く待つという客も中にはいるのですから驚きです。暇でいいですね。

 

代行が約束した時間に来ない

 

代行が時間通りに来ないことはよくあります(あってはいけないことですが)。どうして時間通りに来れないのかについてはいずれ別の記事で詳しく解説するつもりですので、ぜひそちらをご覧ください。

代行が約束の時間に来なくて困るのは店の客ばかりではありません。客の怒りの矛先が、その代行を呼んだ店にも向けられることがあるからです。

店が親切で代行を呼んでくれたにもかかわらず、来ない代行の責任の一端があたかも店側にもあるかのような言動をする客がいるものです。大方は酔っぱらっていて理性が働かないからなのですが、だからといって大目にみてあげる理由もありません。

客は店で過ごした時間の満足度を総合的に判断しています。料理が美味しいとかそうでないとか、料理が出てくるのが遅いとか、店内の雰囲気とか、音楽とか、店員の対応とか、ホステスのいるような店では当然ホステスへの満足度が店の評価の大きい部分を占めることになります。そんな評価対象の中に代行も含まれていることを忘れてはいけません。

 

お店にとっても客の回転率を上げたい時間帯に代行がなかなか来ないと売上げを損ないます。店内で代行が来るのを待っているだけの客というのは、もう何も料理を注文しないものです。そんな客が長居しても1円にもならないばかりか、テーブルを占拠して次の客の入店を邪魔しているのです。お店としては早く帰ってもらいたいものです。そのためには早く代行に来てもらいたいのです。

 

小さい店の場合、閉店時間にかかわらず客が帰らないと店員も帰れないことがあります。

例えば午前2時に閉店するスナックがあったとしましょう。代行を2時に来るように呼んであります。2時に客を代行で帰して、その後店員も帰宅するためです。

しかし代行が2時を過ぎてもまだ来ません。そんな場合、店を閉めることができません。閉店時間だからといって常連客を2時に店から追い出し、代行が来るのを待っている客を尻目に店員だけ先に帰宅することは難しいのです。結局代行が来るまで店員も客に付き合わなければなりません。

時間通りに来ない代行というのはそれを直接利用する客にとっても、また店にとっても迷惑なものなのです

 

代行を依頼した客が代行が来る前に勝手に帰ってしまった

 

飲食店から呼ばれて、代行会社の車が時間通りに店に到着しました。代行の運転手は店に入って到着した旨を店員に伝えます。しかし代行で帰るはずだった客はそこにいません。

店員は「さっき会計を済ませて店から出て行ったので、駐車場の自分の車の中で待っているのではないでしょうか?」と言います。しかし駐車場の車をくまなく探してもそんな客はいません。

どんな可能性が考えられるでしょう?

たまたま近くにいた別の代行会社を拾って帰ってしまったか、待ちきれずに飲酒運転で帰ったか、歩いて別の店へでも行ったか、宇宙人にさらわれたかしたのでしょう。

 

仕事は空振りに終わってしまいました。しかしこんな場合に代行を呼んだ店に苦情をいうわけにはいきません。店はただ客の代わりに代行を頼んだだけなのですから。店にキャンセル料を請求するわけにもいきません。

はるばる店に辿り着いた代行会社の車は、客がいないことを会社に報告し、また次の店へと車を走らせるのでした。

 

私もこんなことが何度もありました。

店から呼ばれて行ったのだから、客を代行の運転手にきちんと引き渡す責任が店にはあるのではないか? と私などは思うのですが、どうなのでしょうか? 

店もそこまで責任は持てないですよね、きっと。

  

飲食店が代行会社を何社も呼んだ場合に起こりがちなトラブル

 

大型の飲食店などでは代行の車を一度に10台近く呼ぶことがあります。代行会社1社だけでその台数をまかなえない場合には、飲食店は複数の代行会社でその台数を確保することになります。

 

そんなときに起こりやすいトラブルを3つ。

 

1つ目

普通は店に到着した代行会社の順番で、出てきた客を乗せて出発しますが、順番抜かしをする人がやはりいるのです。そんな時に運転手同士でいざこざが起こったりします。

 

2つ目

店から出てきた客の中には自分の携帯電話から個人的に代行を頼んでいる人もいます。その客が、自分が個人的に呼んだ代行ではなく、店から呼ばれて来ている別の会社の代行で帰ってしまうことがあります。多くは双方の勘違いによるものです。

しかしその客が遠方へ帰る客で、呼ばれていた代行会社のお得意様だったりすると、「ウチの客を取った」とその代行会社から電話がかかってくることもあります。代行会社の配車係同士で言い合いになることもあるのです。

客は酔っていて頭も働かないし、運転手だって夜で相手の顔もよく見えない。狭い駐車場は客と運転手と車でごちゃごちゃしているし、みんな急いでいるしで間違えてしまうこともあるのです。

 

3つ目

代行を自分で呼ばず、店に頼んで呼んでもらうこともせず、とりあえず店から出てくる客もいます。そうするとそこには何台も代行の車がいる。ではこれで帰るかと、待っている代行を使って帰ってしまう人もいます。そうすると店から呼んだ代行が足りなくなる。店から代行会社に電話がかかってくる。

 

店「おたくに3台頼んだはずなのに2台しか来ていない」

代行会社「いや3台到着して3台とも出発した」

店「1台来てなくてお客様が30分も待っていて怒っている」

 

飲食店は呼んだ代行会社の社名を客に伝えたり、代行会社に客の名前を伝えたりと、間違いが起こらないように間に立っていろんな苦労をしています。

 

店から客が出てこない

 

代行会社が店に到着したのに客がなかなか出てこないことがあります。

話が盛り上がってまだ帰りたくないのでしょうか?

だったらまだ呼ぶなと言いたいです。

 

また、2人で飲んでいる客が2台代行を頼んで、1台は到着したがもう1台がまだ到着しない。こんな時に、2台そろうまで店から出てこない客というのがいます。

代行会社は店から電話で代行の依頼を受けたときに「2台同時に到着しなくても、着いた順番にすぐに出てきてください」と伝えておくこともありますが、その通りに実行されないこともしばしばなのです。

 

これは店の責任ではなく客の責任なのですが、時間にルーズな客の多い店というのは割とあります。そういう客層なのでしょう。もしくは客に気兼ねして「代行が待ってますのでそろそろお帰りください」と伝えられない店なのでしょう。

そういう店からの仕事はだんだんと受けなくなってしまいます。よほど暇な時は別ですが。

特にわざわざ時間指定をして代行を呼んでいるにもかかわらず、その時間になっても出てこない店というのは、代行の仕事を受け付ける優先順位は最下位です。

 

まとめ

 

今見てきたように、飲食店が客に代わって運転代行を呼ぶというのは結構大変な仕事です。しかしその業務をうまくこなせれば、店にとってそのサービスは一つの武器となるのではないでしょうか。

代行を上手に使うためのマニュアル作りや従業員教育などにも力を入れてみてはいかがでしょう。

ネットワークビジネスを始めることになっちゃった!

職場の先輩からの紹介で、某ネットワークビジネスを始めることになりました。

経緯をかいつまんで話します。

 

先輩曰く「最近副業としてネットワークビジネスを始めた。ついては勧誘や紹介に使うチラシの作成などを手伝ってほしい、自分はパソコンの扱いに慣れていないから。もちろんお礼はする。それにあたってはどんな会社のどんなビジネスなのか概要を知ってもらいたいので今度のセミナーに一緒に行って話を聞いてほしい」

 

こんな内容の話があり、私はそのセミナーに参加したのです。

セミナーといってもマンションの一室に数人集まって、先生役の人の話を聞いたりみんなで会話したりというだけの、実にアットホームなものでした。

お茶を飲みながら製品紹介のビデオを観たり、スライドを使っての説明を聞いたりして、午後の日差しが差し込む明るい部屋で夕方まで時間を過ごしたのです。

 

そしてセミナー(というのかミーティングというのか勉強会というのか)が終わり、そろそろ解散とあいなろうとする頃、私は「僕もやろうと思います」という言葉を自然と口にしていたのです。

 

一番驚いていたのは私をそのセミナーに誘った先輩でした。彼はまさか私がそのビジネスを実際にやるなどとはまったく考えていなかったのです。本当にチラシの作成をしてもらいたかっただけなのでした。

 

私はこのビジネスをやるかやるまいか考えあぐねた末に一大決心をしたわけではありません。確かにどんなことでも新しいことを始めるには多少の迷いは生じるものですから、まったく私の中に葛藤がなかったわけではありません。しかしその葛藤は、先月ブックオフで古着のTシャツを1枚、買うかどうか悩んだ末に200円で購入したときよりも小さいものでした(注・ブックオフには本やCDだけでなく衣類も売っています。ご存じとは思いますが念のため)。

 

セミナーでは、取り扱っている製品が環境にやさしく高品質で安いということと、製品の紹介をビジネスとしておこなえるということを聞いただけで、販売員として勧誘されることはありませんでした。私以外にもそのセミナーに誘われて来ていた人たちがいましたが、その人たちも特に勧誘されるということはなく、話を聞くだけで終わりでした。

 

私も二十歳そこそこの子供ではなく、ある程度の人生経験を積んだ大人ですので、うまい話に手放しで飛びつくようなことはないつもりです。

入会するにあたって登録料は多少必要ですが、ビジネスに失敗したとしても失うものはその登録料くらいのもので、その他にリスクはほとんどありません。始めるためのハードルは低いのです。

 

そんなセミナーがありまして、それから数日後に正式に登録するための書類にサインをし、めでたくみんなの仲間入りをはたしたというわけです。

 

私も今までに何度かこの手のネットワークビジネスの勧誘を受けたことがありました。いろんなセミナーやミーティングに連れて行かれたりしたこともあるのです。しかし最終的には勧誘を断りました。

それはどうしてかと言いますと、扱っている製品がどうだとか報酬がどうだとかということよりも、そのビジネスに携わっているメンバーの人たちと一緒に仕事をやっていきたいと思わなかったからです。メンバーというのは私を勧誘した人やその人を勧誘した人、そのまた上の人といった人たちのグループのことです。

今回はセミナーに参加してみて、私がそこの人たちを気に入ったからやってみる気になったのです。

 

 

ところでネットワークビジネスというとアムウェイやニュースキンなどがすぐに思い浮かぶのではないかと思いますが、私が始めることになったのはほとんど名前の知られていない会社です。私も生まれて初めてその会社名を耳にしました。

まだ始めたばかりですし、会社のことも仕事の詳細についても知らないことばかりです。私の無知ゆえの発言から関係者に迷惑をおかけするようなことがあってはいけません。そんなわけで今のところはまだ私がやることになったビジネスの会社名は伏せておくことをご了承ください。

 

このビジネスはマルチレベルマーケティング(MLM)なんていうカッコいい別名で呼ばれたり、特定商取引法では連鎖販売取引なんていう硬い名称が使われたりしています。またねずみ講の親戚みたいに揶揄する人たちもいます。

怪しげな儲け話。強引な勧誘。損させられるに決まってる。詐欺・・・。

などなどいろんな印象を持っている人がいると思います。

自信を持ってしっかりとした説明ができるように、目下知識武装中です。

もしかしたら、あなたにも声を掛けるかもしれませんよ。

 

元来友人知人が少なく人脈もない私に、はたしてどこまでできるのか、よく考えてみると不安材料は多々ありますが、あまり深く考えすぎずに気楽に気長にやっていこうと思います。

 

ちなみに当初やるはずだった「チラシの作成」も、数回の修正を経て合格点をもらえるものを完成させました。この作成のために、今までその名前しか聞いたことのなかったパワーポイントなるものを使い、悪戦苦闘の末に独力で成し遂げたのです。お陰で良い勉強になりました。

 

また進展があれば、この「ネットワークビジネス」のカテゴリーで記事を書いていきますので、ぜひとも御覧くださいませ。

「ダメ」という言葉を使うのをやめませんか? 「ダメ」と言いたがる人の5つのタイプ

私が働いている職場では「ダメ」という言葉をよく耳にします。

仕事上の指示として使われることがほとんどで、「それをしてはダメ」「そのやり方ではダメ」「こんな結果ではダメ」などのような文脈で口にされます。

 

短くて発音しやすく、1秒で言い終われるので忙しい現代人向きなのです。おまけに何故ダメなのか、どの程度ダメなのか、ではどうすれば良いのかについては一切言及しなくとも、ただ「ダメ」の一言で相手を黙らせてしまえる無慈悲さも人気の秘密でしょう。「ダ」という強い音がその場の雑音や空気を断ち切って相手の耳を突き刺し、一撃で相手の行動を制止させる効果があります。

 

そんな便利な「ダメ」なのですが、結論から先に言わせてもらうと私はこの言葉が嫌いです。相手の言動のみならず、人格や考え方も含めた人間全体を否定しているように聞こえるからです。「ダメ」と言われると「ダメな人間だ」と同義に受け取ってしまうのです。

 

こんな風に感じるのは私だけでしょうか? 他の人たちは特に違和感なくこの言葉を発したり受けとめたりしているのでしょうか?

 

私は「ダメ」という言葉を自分が言われるのはもちろんのこと、他人が他人に使っているのを聞くのも不愉快です。それだけではなく、ドラマや小説の中の会話で「ダメじゃん」などと使われているのを見聞きするだけでも腹立たしく感じてしまいます。

今日も日本中のあちこちで、朝から晩まで1000万回もこんな言葉が発せられているのかと想像すると本当に気が滅入ります。

 

そこで、どうしてこんなに頻繁に「ダメ」という言葉が人々の口にのぼるのかをちょっと考えてみました。

 

そもそもこの言葉を使うことに抵抗がない

感受性が鈍いのか、この言葉に特別嫌悪を感じておらず、気軽な否定表現として何らのためらいもなく使用している人がいます。こういう人が使う「ダメ」は同じ「ダメ」でも屈託がない分嫌味にならないので、慣れてくればあまり気にならなくなることが多いです。この人の言う「ダメ」はまぁ許せるか、というように、使う人によって感じ方が変わることがあります。

 

無精者が手近なところに転がっている言葉を拾って投げつける

考えるのを面倒くさがる人は、パッと頭に思いついた言葉を思考のフィルターを通さないまま口にします。似たような意味の言葉であれば何でもいいのでしょう。大体の意味が通じて結果的にこちらの望む通りになるのならば言葉は選ばないというタイプです。

日本語には「ダメ」という言葉以外にもたくさんの言葉がありますよ。他の言い回しも試してみてはいかがでしょうか? これは「カワイイ」しか言えない女の子にも言っておきたいことです。

 

適切な否定表現のボキャブラリーがない

上記のタイプと重複する部分がありますが、他に言葉を知らず、○か×か、白か黒か、といった大雑把な表現しかできないため、「良い」の反対として「ダメ」を使うしかない人。

言葉を使って様々なニュアンスで表現することができるのだということを知ってもらいたい。

よく歌の歌詞などで「言葉では表せない」とか「言葉では伝えられない」とか「こんな時に言葉は役に立たない」などと言葉を軽視し、言葉の力を低く評価しているのを耳にしますが、一体言葉で表現するための努力をどれだけした上で言っているのかと問いただしたいです。

私も言いたいことを上手く言えない歯痒さを毎日のように感じていますが、それは言葉のせいではなく私のせいなのです。「言葉なんて役に立たない」のではなく、役に立たないのは自分だということに気付いてもらいたいものです。

古今東西の偉大な文学作品の1ページでも読んでみれば、言葉の可能性に目を開かれるでしょう。たとえ自分には言葉を使いこなすだけの能力がないにしても。

 

自分の方が立場が上だということを主張したい

 「ダメ」という言葉は目上の人には使わないはずです。必ず自分よりも格下に対して上から使う言葉なのです。同僚などでどちらが上か下か分からないような関係において「オレが上だ、お前が下だ」ということを定義したい人が、相手のミスに乗じてここぞとばかりに使います。

 

これを機に可能な限り相手を叩きたいという幼稚な加虐趣味の表れ

「ダメ」という言葉の効果、威力を知っていて、あえて使う意地悪な人が時々います。自分が狙った人に必要な分だけ使うのであれば、その相手から嫌がられるだけで済むかもしれませんが、注意しなければならないのは言葉遣いは癖になるということです。特に品のない言葉ほどその傾向があります。ここに例を挙げるのは差し控えますが、簡単にいくつも思いつくことでしょう。「ダメ」が口癖になっている人の周りには人が寄り付かなくなると思います。

 

まとめ

「ダメ」という言葉を使ってもよいのは、理由を説明する時間がないような緊急を要する場合か、相手を威嚇してでも有無を言わせずその行動を制止させる必要がある場合だけに限るべきだと思います。

例えば小さな子供がボールを追いかけて、車が来ている車道へ飛び出そうとするのを止める場合などです。

私はうちの猫が台所のテーブルの上に跳び乗った時にだってそんな下品な言葉は使いません。うちの猫はダメじゃない。ただ味噌汁を舐めてみたかっただけのいたいけな猫なのですから。

 

以上、まったく個人的な意見を述べさせていただきました。反論も多々あろうかと思いますが、こんな考えの人も世の中にはいるのだなくらいに軽く流し読みしていただければありがたいです。

猫を事故から守るためにできること

猫たちがそれぞれに与えられた天寿を全うできれば良いのですが、中には不慮の事故により命を落としてしまうケースがあります。

 

今回はそんな悲しい事故を防ぐために私たちに何ができるのかを考えてみようと思います。

主に家猫に対して家庭でできる取り組みについて、私が実践していることを思いつくままに書いていきます。

もし何か参考にしていただける部分があれば、あなたの愛猫のためにぜひお役立てください。

 

 

そもそも家庭内の事故でどれくらいの猫が犠牲になっているのか、私はその数字を知りません。

ですが、その数は決してゼロではないはずです。

それでは安全なはずの家庭内に一体どんな危険が潜んでいるのか?

 

猫を踏まないように注意

 

まず考えられるのは、誤って猫を踏んでしまうということです。

 

そんなことが本当にあるのでしょうか?

私は踏みそうになってヒヤッとしたことはありますが実際に踏んだことはありません。また踏んで死なせてしまったという話をきいたこともありません。

しかし可能性としては十分にあり得ることです。

音もなく歩いてきた猫が知らない間に自分の後ろで寝そべっていて、気が付かずに踏んでしまうということは考えられます。

 

私は部屋の中では、立っている状態から一歩でも足を踏み出すときには必ず足元を確認するようにしています。

面倒くさいなと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、習慣になればどうってことはありません。

 

ふとんの中や衣類の下に注意

 

寒い冬の日などは、猫が掛布団の中に潜り込んでいることがあります。

それに気付かずにベッドの上に跳び乗ったりしたら、大惨事となります。

また似たような状況として、取り込んだ洗濯物の山の中に猫が隠れているということもあるかもしれません。

猫が隠れているかもしれない場所で何か行動を起こすときには、常に注意を怠らないようにしたいものです。

 

ドアを閉める前の確認

 

猫は飼い主の行くところ行くところについてくることがあります。

うちの猫ピヨピヨ(仮名)もそうなのです。

トイレに行くにもついて来ることがあります。

そんな時に、自分がトイレに入ったあと、後ろを確認せずに後ろ手にドアをバタンとしめたりしたら、ついてきた猫の首やしっぽを挟んでしまうかもしれません。

 

ベランダに出るときなども、猫が後ろからついてきて敷居のところで外の様子を窺っていることがあります。

猫に気付かずにベランダのあの重いドアを勢いよくしめたりしたら、猫はどうなるでしょう。

 

「ドアを閉めるときは確認をしてから」を習慣にしています。

 

刃物の放置は厳禁

 

包丁、カミソリ、針、ナイフ、カッター、日本刀(ないと思いますが)などの猫の身体を傷つける可能性のある物体は猫の手の届くところに放置しないようにしています。

 

好奇心旺盛な猫は何でも触ったり舐めたり蹴とばしたりしたがります。

洗った後の包丁をシンクの横のカゴに入れて乾かしておくような場合でも、私は必ず刃をむき出しにしないようにしています。

 

洗剤、漂白剤などのつけ置きの液体の管理

 

台所で食器を漂白剤につけ置きにしていたり、トイレや浴室を洗浄中のままドアを開けっぱなしにしていたりすると、猫がその水を飲んでしまう可能性があります。

「えっ、うちの猫はそんな水飲まないよ」という方もいらっしゃいますでしょうか?

お上品な猫ちゃんですねぇ。でもあなたが知らないだけで案外トイレの水なんか飲んでるかもしれませんよ。

 

うちのピヨピヨはいつもの食事スペースに新鮮なおいしい水をたっぷりと用意しているにもかかわらず、浴室の床面に溜まっている水たまりの水を好んで飲んだりするのです。

ですので猫が飲みそうな液体、食べそうな食品で、猫の健康を害する可能性のあるものは猫が近づけないような配慮をしています。

 

冬場のストーブ、ガスコンロの火

 

暖房にファンヒーターやエアコンを使っている方が多いと思いますが、私は昔ながらのストーブを愛用しています。

オレンジ色の火を見ていると、薪を燃やす暖炉ほどではないですがやはり気持ちまで暖かくなるような気がします。

それにヤカンをかけたり煮物を保温しておいたり餅やシイタケを焼いたりもできるからです。

そんな便利なストーブですが、心配の種は猫の火傷です。

ストーブの焼けた天板に跳び乗るようなことはさすがにしないでしょうけれども、ヤカンをひっくり返したり、しっぽが網のすき間から中に入って火が付くなどの恐れはあります。

たとえ短時間でも部屋を留守にする時には消火を徹底しています。

 

猫を外に出さない

 

家で猫を飼っている人は、猫を外に出させない方が良いと思います。

その一番の理由は猫を交通事故の被害に合わせないためです。

猫を外に出させないというと「猫を監禁している」という印象を持ってしまう方もいるかもしれません。猫の外出の自由を尊重したいという気持ちも分かります。

しかし大空を自由に羽ばたきたい鳥を小さな鳥かごの中に閉じ込めておくのとは違い、猫は部屋の中だけでも工夫次第で快適に暮らしていける動物だと私は思います(猫にきいてみたわけではありませんが)。

 

猫が車にはねられたり轢かれたりしたところを見たことがありますでしょうか?

それが自分の飼っている猫ではなくただの野良猫だったとしても、とても痛ましく、つらい気持ちになるものです。

ましてや自分の愛猫がそんな目に合ったりしたら、とても冷静な気持ちではいられないと思います。

 

あんなに運動神経の良い猫が、どうして走ってくる車の前に飛び出したりするのでしょうか?

その猫の心理を誰か専門家に解明してもらいたいものです。

 

猫の交通事故死は私たちが想像しているよりもはるかに多いそうです。

詳しく解説してくださっているサイトもありますので、ぜひ参照していただきたいと思います。

 

最後に

 

人間でも、乳幼児の死亡事故は安全だと思われがちな室内で起こっているケースが多いそうです。

水を張ったままにしておいた浴槽での溺死やコンセントでの感電など、考えてみれば危険なモノや状態というのは意外と多く存在します。

家の中も危険なのだという意識をもつことが、家庭内での事故を防ぐ一歩になるのではないでしょうか。 

 

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「ねこふんじゃった」という恐ろしい歌がある - 荒川光のブログ

「ねこふんじゃった」という恐ろしい歌がある

誰もが子供の頃に「ねこふんじゃった」という歌を聞いたことがあるのではないでしょうか?

 

猫を飼っている人は、時々この歌を思い出して口ずさむことがありませんか?

実は私もそうなのです。そしてどんな時に思い出すことが多いかというと、それは猫を踏んでしまいそうになった時なのです。

 

例えば私が台所で食事の準備をしている時、ちょっと冷蔵庫の中のものを取ろうと一歩足を踏み出そうとしたら、そこに猫のピヨピヨ(仮名)が寝そべっていてヒヤッとするということがたまにあります。

「危ないなぁ、ピヨピヨ! さっきまで隣の部屋にいたはずなのに、いつの間に!」という感じです。

幸い猫を踏んでしまったことは一度もありませんが、ドキッとしたことは何度かあるのです。

  

さて、ここであなたにもちょっと考えていただきたいのですが、もしも床の上に寝ている猫を踏んでしまったら、猫はどうなるでしょうか?

 

とても想像したくないことですが、心を鬼にして、できるだけリアルに思い描いていただけますか?

私もやってみます・・・。

 

 

どうでしたか? 猫はどうなりましたか?

猫の柔らかいおなか。華奢な背骨・・・。

 

 

そうです。猫は人間の体重で踏まれれば、死んでしまうと思います。

猫を踏むということは、すなわち猫の死を意味するのです。

 

 猫自身は飼い主に踏まれるという可能性を考えていないと思います。

人間のことを、誤って猫を踏んでしまうほど愚頓な動物だとは思っていないでしょう。自分と同じように敏捷で、瞬時の判断力に長けた生き物だと信じているに違いありません。

なぜなら自分自身がそうなのだから。

 

猫は獲物を追いかけたり逆に敵から逃げたりする時、もの凄いスピードで走ったり跳んだりしながらも、自分が踏みしめる地面の状態をよく見て、次々に判断を下しながら行動しています。

 

そんな猫にとって、「人間とは冷蔵庫の扉を開けるために一歩足を踏み出す程度のことで、猫に気づかず踏んでしまうほど間抜けな動物だ」などと、信じられるでしょうか?

 

しかしながら人間は、そのような点においては猫にはるかに及ばないほど劣っているのです。

猫が生まれながらにしていともたやすくやってのけることを、人間はできません。逆もまたしかりですが。

 

猫を踏むことを想像するとゾッとするのは、猫の苦しみと死のためばかりではありません。

「なぜ?」という疑問を猫に抱かせたまま死なせてしまうという、悔やみきれない結果となるからなのです。

さっきまで優しかったご主人様が、なぜ私を踏んだのか?

猫には分かりません。

「過失」ということを理解できないのです。

断末魔の猫に「なぜ?」という目で見つめられたなら、私にはとても目を合わせることなどできないでしょう。

 

 

前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、冒頭でも触れた「ねこふんじゃった」という歌について。

 

ちょっと調べてみたところ、この曲は作曲者不詳で、世界で約28種類の曲名がつけられており、国や地域ごとに様々な歌詞で歌われているそうです。

日本でもいろんな方がこの曲に作詞されているそうですが、中でも一番有名なのは、NHK「みんなのうた」でも使われた阪田寛夫さんという方の歌詞でしょう。

 

私は長い間多くの人々に愛唱されてきたこの歴史ある歌を、残酷な歌詞ゆえに批判しようなどという気持ちはありません。

「これっぽっちもありません」と書かなかった理由は「これっぽっち」くらいは実はあるからなのですが、それはひとまず置いておいて、私が疑問に思ったのはこの作詞家の方はどうしてこんな歌を作られたのかということです。

 

歌詞の1番2番を通して見てみましたが、何のオチもなく、ユーモアもなく、笑うこともできません。

歌ってみても、まったく楽しい気持ちになりません。

そしてこの歌からは猫に対する愛情を髪の毛ほども感じることができないのです。

 

きっとこの作詞家の方は猫がお嫌いだったのではないかと推察します。

猫好きな方だったなら、たとえいくら語呂が良くて、言葉遊びとして面白く、口ずさんで楽しかろうとも、こんな歌詞は書けないと思うのです。

(もっともこの歌は歌詞の意味を度外視したとしても、語調に品がなく、歯切れも悪く、音声的な美感もない低級なものですが)

 

こんな歌詞を喜んで口にする大衆というのは一体どんな野蛮人たちなのでしょうか?

こんな歌がウケるんだったら「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」の代わりに「犬の首切っちゃった、犬の首切っちゃった」も楽しいだろうし、「ウサギの目えぐった、ウサギの目えぐった」だって愉快なのではないでしょうか?

 

先ほど私はこの歌を「長い間多くの人々に愛唱されてきた」と言いました。しかし実のところこの歌は、それほど世間で歌われているわけではありません。

その証拠に私も含めてほとんどの人は、出だしの「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」の16文字しかそらんじることができないのです。

その後を続けて歌うことができません。

歌う理由も必要もないし、歌う喜びがないからです。

だったら出だしだって口にしなくてもよいのですが、親から聞かされたのか学校で教えられたのか、幼少期の純粋無垢な頭にすりこまれたこの忌々しい歌は、それから40年もたった今になってもひょんなきっかけで私の脳裏に浮かび上がってくるのですから困ったものです。

 

作詞をした阪田寛夫さんは小説家でもあり、芥川賞や川端康成文学賞の受賞歴もあるとのことです。一体どんなものをお書きになられたのでしょうかね。

こんなテキトーに考えて作ったような歌詞を世に出すなんて、もしかしたら何かのっぴきならない事情があったのかもしれません。

わざと半分ふざけたような歌詞を作るように依頼されたとか、借金のためにその場で1分で作ることを要求されたとか。

 

 

ひょっとしたらこの歌には、今の私には理解できない深い世界観や人生観が表現されているのかもしれません(ないと思うけど)。

「ねこふんじゃった」を軽率にも批判するという過ちを犯した浅はかな自分を、許せないほど後悔する日がいつか来るのかも(来ないと思うけど)。

 

子供の頃に「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」と口ずさみながら、私は幼いながらも「これはちょっと自分に合わない」というような違和感を感じていたのでした。

しかしその頃の私は、その違和感の正体を掘り下げて突き止めようとまではしませんでした。それは私の心に吹いてきた一瞬の風に過ぎず、すぐに過ぎ去っては忘れてしまうものだったからです。

しかし猫と一緒に暮らすようになった今ではあの頃の違和感の意味が分かります。

陽気な楽しいリズムに乗って猫を踏みつぶす歌を歌うなんて、猫に一体どんな恨みがあればそんなことができるのでしょう?

 

 

いつの日か誰か才能のある人がこの歌詞の別バージョンを作り、それが話題になり、世間に広まり、本家を凌いでこの曲のスタンダードとなることを願います。

そして私たちの孫の代には、子供たちがみんなその新しい歌を歌う日が来ますように。

 

 

さっきから偉そうなこと言ってるけどお前はどうなんだ、という声も聞こえてきそうなので、私もちょっと作詞に挑戦してみました。

こんなのどうでしょうか?

 

「猫フンしちゃった、猫フンしちゃった、猫まーくらもーとにフンしちゃった」

最低ですね。

禁酒の完成形とはこの状態だ! 禁酒していたことすら忘れてた! アルコールから自由になれた日

禁酒を始めてから約1ヵ月半がたった今日この頃。

自分でも予期していなかった驚くべき現象が起こりました。

 

それはここ最近、自分が禁酒していたことをすっかり忘れていたということ。

 

禁酒していたことを忘れて飲んでいたのかって?

いいえ、違います。

 

まったく酒を飲みたいとも思わなくなって、食事の時に水を飲むのが当たり前の習慣になって、禁酒していたことすら忘れてしまっていたのです。

 

つまり酒が頭によぎることすらなくなっていたのです。

 

こんなことってあるのでしょうか?

いくら物忘れの激しい私だとしても、四半世紀飲み続けてきた酒を、わずか禁酒1ヵ月半にしてすっかり忘れてしまっていたなんて。そんな馬鹿な!

 

でも、これは本当の話なのです。

 

禁酒を始めてから今までの間で、禁を破りかねないほどに飲みたくなったのは、最初の3、4日くらいです。

それを過ぎると我慢することがそれほど苦痛ではなくなりました。

 

時々思い出したようにアルコールへの渇望がぶり返すことは何度かありましたが、その闘いにはそれほど苦戦することなく、私は勝利しました。

 

炭酸水は安く手に入る上、ビールの代役を十分にはたしてくれました。

私が普段からテレビをほとんど観ないことも有利に働いたと思います。

ビールのコマーシャルは非常によくできていて、あれを観ると絶対に飲みたくなるからです。飲みたい気持ちにさせるために作っているのですから当然と言えば当然のことですが。

 

しかし酒を飲まずにいられた一番の要因は何かというと、私の今の生活が、これまでの人生の中でかつてないほどストレスの少ないものだということです。

 

禁酒に失敗する原因はいくつかあると思いますが、最も大きな原因は(医療機関での処置が必要な離脱症状を除けば)酒場やCMなどからの誘惑ではなく、ストレスではないかと思います。

 

どんな人間でも、生きている限りストレスから無縁ではいられません。

頭が良かろうと金持ちであろうと美人であろうと、誰もが何かしらのストレスを抱えながら生きているに違いありません。

そしてそんなストレスがアルコールにスーっと溶けていって、とても楽な気分になる。それが根本的な解決になるわけではないけれど、また明日、解決に向けて努力すれば良いのであって、今はしばし心を休めたい。

そんなアルコールの優しい愛撫を毎晩受けている者たちは、それぞれが抱えるストレスの大きさに比例して、アルコールとの別れのつらさも大きくなるのです。

 

眠りに就く前のひと時、ストレスから自由になりたい。

それを心の弱さだとは思いません。

少し楽になりたいという気持ちに何の罪があるのでしょうか?

 

しかしながら、アルコールと決別するためにはアルコール以外の方法でストレスと向き合わなければならないのです。

アスコールとストレスは常にセットで考えなければならないと思います。

 

ここでちょっと余談ですが、聞いた話によりますと、タバコのニコチンは人間の脳に「快」の感覚をもたらすのに対して、アルコールは「不快」の感覚を消し去るという、別種の働きがあるそうです。

どちらも依存状態になると絶つことが難しい嗜好品である点では似ているのですが、脳に対する作用の仕方は異なるそうなのです。

 

私は25歳頃にタバコをやめることができたのですが、喫煙期間はわずか5年ほどで、なおかつ1日に数本吸う程度のライトスモーカーだったにもかかわらず、禁煙を成し遂げるためには、今おこなっている禁酒の比ではないほど大きなエネルギーが必要だったことを覚えています。

 

私はいともたやすく禁酒に成功したことに、あっけにとられています。

25年間、ほぼ毎日、大量に飲んできたにもかかわらず、この結果なのです。

 

勝因は先ほども述べた通り、今の私が比較的ストレスの少ない時期にいるからだと分析しています。

 

念のために付け加えておきますが、今の私が順風満帆の状態だということではありません。

詳しくは述べませんが、経済的に非常に苦しい状況にあるのです。

消費者金融7社からの借入金の返済ができず、給料を差し押さえられ・・・などを想像していただければほぼ当たりだと思います。

 

しかしそんな状況の私ではありますが、それでも今の私の生活はこれまでの人生にないほど穏やかなものです(仕事の内容や職場の環境、人間関係などが)。

様々な小さなストレスはあれど、精神を害するほどの強烈なストレスがない。

禁酒にもってこいの、良い時期だったのだと思います。

 

今この記事を読んでくださっている方は、きっと禁酒に興味がある、あるいは実際に禁酒に取り組んでいらっしゃる方だろうと思います。

禁酒に成功していい気になっているわけではありませんが、僭越ながら私から何かアドバイスめいた助言ができるとすれば、「石にかじりついてでも酒を断つ」という気概よりも、今の生活の中で強いストレスとなっているものを取り除くという方法が近道ではないでしょうか? 

 

いわば「急がば回れ」作戦といいますか「北風と太陽」作戦といいますか「風が吹けば桶屋が儲かる」作戦といいましょうか。

禁酒を成功させるには動機や方法も大切ですが、「時期」も非常に重要だと思います。

 

日常の激しいストレスに禁酒のストレスが加わり、その上もし禁酒に失敗したときの自己嫌悪感や自己否定感、自分は意思の弱い無力な人間だという敗北感・・・。

そういった負の気分はアルコール以上に自分の心身を傷つける凶器になると思います。

 

負ける戦いをせず、勝てる状況を整えてから勝てる戦いにだけ挑むことが勝つ秘訣だという言葉も聞いた記憶があります(出典はなんでしたっけ?)。

 

 

先日私は某コンビニエンスストアで、お気に入りの500円くらいの赤ワインを手に取りました。

自分を試してみたのです。

 

ワインのボトルを、かつての私がしていたのと同じように買物カゴの中に入れてみました。左腕にさげた空っぽの買物カゴに、ワインボトルをそっと置いてみたのです。

ボトルは以前よりも少しだけ腕に重いように感じました。そして一瞬、心に微かな誘惑のさざ波が立ちました。

 

しかしさざ波は大きな波には成長せずにすぐに静まってくれました。すっかり元通りの精神状態に回復した私は自信をもってボトルの首をつかむと、余裕しゃくしゃくで元の棚に戻しました。

 

もちろん店員や他の客が見ていない時をみはからってのことです。もし誰かに見られたら、アルコール依存者が買おうか買うまいか逡巡していると誤解されかねません。

私がおこなったのはたんなる確認だったのです。その必要もないほど明確に分かっている答えの、再確認。

 

なんならビールを1本買って帰って、冷蔵庫で美味しそうにキンキンに冷やしておいて、それでも風呂上がりに飲まないでいられるか試しても良かったのですが、さすがにそこまでの自虐趣味はありません。

 

結局私はポテトチップスとチョコレートを買って店を出ました。

トランス脂肪酸と砂糖を肴に、独りっきりの炭酸水パーティーをやろうと企てたのです。

それでも酒を飲むより10倍身体にいいだろうと考えて。いや、悪さ加減が10分の1で済むだろうと考えて・・・。本当はどっちもどっちだと思うのですが。

 

最近は禁酒の完成度がより高くなってきて、ポテトチップスもチョコレートも炭酸水も必要なくなりました。

冷やした水道水(カートリッジ式の浄水フィルターを通してあります)だけです。

 

そしてついには「禁酒」という言葉自体が私に無関係なものになったのです。

元々お酒を飲まない人は禁酒していません。たんに「飲まない人」なのです。

私も今、そうなりました。禁酒しているのではなく、たんに飲まない人に。

 

あんなに長期間飲んでいた酒をあっという間に忘れられた自分を、少し薄情に思う余裕すらあります。

あんなに愛した女を、あるいはあんなに執着した片思いの女を、いともあっけなく、悪気もなく、屈託もなく、忘れ去ってしまうように、私は酒を、忘れ去ったのです。

 

いつの日か、何かの拍子にフッと過去の私を思い出して、照れ笑いしている自分を体験する日がくるのが楽しみです。

  

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猫はどうして飼い主の身体で爪とぎをしないのか?

今回は私がずっと疑問に思い続けている猫の不思議の1つについて書いてみようと思います。

 

それは何かと言いますと、猫は爪とぎ用のダンボールはもちろんのこと、イスや壁や柱などあらゆるところで爪をとぐにもかかわらず、人間の足やひざやふとももなどでは絶対に爪とぎをしないということです。

 

「えっ、うちの猫は私の脚で爪をとごうとしてくるよ」なんていう人もいるのでしょうか? そんな恐ろしい猫を飼っている方、お気の毒さまです。

 

うちの白黒猫ピヨピヨ(仮名)は人体で爪をとごうとはしません。ですのできっと他の猫もそうに違いないという勝手な仮定に基づいて以下の文章を書いていきます。悪しからず。

 

ピヨピヨは人の身体で爪とぎをしないばかりか、人の身体に爪を立てることも遠慮しているのが分かります。

 

いくつか例を挙げると、私のひざの上に乗っている猫がバランスを崩して下に落ちそうになった時、ひざに爪を立ててグッと力を入れれば持ちこたえることができるはずなのにそうしないのです。

重力に逆らってふみとどまろうという意思を見せずに、なすすべもなくイスの下にストンと落ちてしまいます。

 

また、イスに座っている私のひざの上に猫が飛び乗ってくる時にも、ひざに爪を立てて腕力を使って登ってくるようなことはありません。

爪を格納した安全な肉球の状態で、軽くポンと登ってくるのです。

 

しかし壁の少し高い所にあるお気に入りの出窓に登るような時には、後ろ足のジャンプ力、そして鋭い爪と前腕の力という素晴らしい身体能力を見せつけて、1.2mもある出窓へ鮮やかに登ります。

 

この違いは一体どういうことなのでしょうか?

 

人間の身体を、イスや柱ではなく「痛みを感じる生き物の身体」として区別できているということではないでしょうか?

 

もしそうだとすると、私は猫の知能についての今までの固定観念を改めなければなりません。

 

私は猫についても動物学についても何の知識もありませんので、あくまで素人の考えにすぎませんが、私は猫には「生命」という概念などないだろうと考えていました。

猫は自分自身のことを「生きている」と自覚していないだろうし、したがっていつか「死ぬ」存在であるということも知らないだろう、と私は考えています。

 

では猫は何を考えて生きているのか?

何も考えていないのだろう。

と思っています。

 

そんな猫が私の脚を柱とは違うものとして認識している。もちろん言葉で認識しているわけではないでしょうけれど、ちゃんと違いを分かっていて、人体に対しては扱い方を変えているのです。

 

私の脚に爪を立てたら痛いだろうとか傷つくだろうと考えて、猫は私に気を使ってくれている。

だからこそ、ひざの上からずり落ちそうになっても抵抗もせずにそのまま落ちてしまう。

そう考えると、ひざの上からツルンと滑り落ちてしまうピヨピヨがいっそう愛おしく思えてきます。

 

もちろん落ちてもケガなどしませんし、また登ってくるだけのことなのですが、これが人のひざではなくてソファーの端っこだったなら、爪を立てて踏ん張ると思うのです。

 

でも、もしも私がビルの屋上に座っているとして、私のひざからずり落ちたら地上まで落下して命がないというような場合であれば、猫はひざにしがみつくのでしょうか?

 

そんな場合であれば、たとえひざの肉や骨に爪を突き刺してでもピヨピヨには踏ん張ってほしい。

 

 

猫って運動神経が良いだけで、頭の方は今一つなんて思っていましたが、もしかするととても賢くて優しい動物なのかもしれません。

あんなに可愛い格好で眠ったりするのも、ひょっとしたら計算されたポーズなのでは、なんて思えてきます。

 

いろいろ思い返してみると、人間だったら我慢していないようなことも、ピヨピヨは何事もなかったかのように知らない振りをしてくれているのではと思うことが多々あります。

 

飼われているから仕方なく服従しているのではなく、私の器の小ささや優しさの足りないところまですべて見抜いた上で、私のことを許してくれているのではと、いつもの場所で丸くなって寝ているピヨピヨを見ていて思っちゃいました。