荒川光のブログ

炎上しない程度の過激発言! を目指しているのですが、出来上がった文章を読んでみるといたって正常で健康的です。ホッとするやらガッカリするやら複雑な心境です。

石鹸で体を洗わない、シャンプーもしない生活を始めたら想像していた以上に良かったよ!

入浴時に石鹸やボディソープで体を洗わず、お湯で流すだけというやり方を実践している人たちがいます。

 

芸能人でいうとタモリさんや福山雅治さん、ローラさんなどがそうらしいですね。

本当かどうかは本人にきいたわけではないので知りませんが、ネット上ではそのような記事を散見します。

 

またいわゆる「湯シャン」と言って、髪を洗う時にシャンプー剤を使用せず、お湯のみで洗っている人もいるとのこと。

 

実は今年の6月から、私もそんな生活を始めたのです。

ちょうど4ヵ月が経過したのですが、始める前に想像していた以上に良いものだったので、ここで話をさせていただこうと思います。

 

目次

 

洗剤を使わない生活を始めた経緯

経皮毒 

「経皮毒」という言葉を耳にするようになって久しいです。

経皮毒というのは洗剤などに使われている化学物質が皮膚表面から体内に吸収されて、毒として作用することを言うのだそうです。

血液に乗って体中を巡り細胞を傷つけるだとか、体内に有害成分が蓄積されて老化を促進させたり病気の発症リスクを高めたりするなどと言われています。

 

しかしその一方で「経皮毒」なるものは存在しないと主張する人たちもいます。

洗剤に使用されている化学物質の安全性は確認されているし、そもそも皮膚にはバリア機能があって、化学物質は皮膚を通り抜けて体の中に入ってきたりはしないという意見です。

天然成分のみを使用した洗剤類を販売したいメーカーが、他社製品を経皮毒という言葉で貶めているのだという人もいます。

 

私自身はどのような考えを持っているのかというと「知らない」「分からない」というのが正直なところです。

皮膚の専門家でもなく、化学物質にも無知な私に分かるはずなどないのです。

 

ですので私が洗剤類を体から遠ざけようとするのは多分に気分的なものなのです。

また疑わしきものは一応回避しておくのもリスクマネージメントの一つだという考えです。

風呂の湯舟を台所洗剤のママレ〇ンで一杯に満たして、その中に体を沈めたいかというとそんな気にはなれません。

ということは皮膚から化学物質が体内に入ってくる可能性を感じているということです。

 

いつか洗剤類には一切害がないということで意見の一致を見る日がきたとすれば、それはそれで良いことで、別に私が何か損をすることでもない。

 

別の記事「健康情報が多すぎて、何が正しいのか分からない!」にも書いたのですが、相対立する情報が多くて、そのどちらを信じて良いのか分からないことが多いのです。

経皮毒もその一つ。 

 

洗い過ぎの弊害

体の洗い過ぎ

現代人は清潔志向が行き過ぎて体を洗い過ぎているとの声も耳にします。

体を洗わないと汚いぞ、臭いぞ、嫌われるぞと脅かされ、洗っても洗っても十分でないような気持ちが残ってしまいます。

 

私は以前はザラザラしたナイロンのタオルにボディソープを泡だてて体をこすっていました。

垢を削り落とし、皮脂を洗剤で溶かして体の表面をきれいさっぱり洗い上げようとしていたのです。

でもそれだと洗い過ぎではないかと考えて、ナイロンタオルから柔らかい絹のタオルに替えた時期がありました。

しかしそうすると皮膚の表面をただ泡でヌルヌルと撫でているだけで、垢がちゃんと取れていないような気がして満足できなかったのです。

しばらくするとまたナイロンタオルに戻していました。

 

聞くところによれば、洗剤で皮脂をゴッソリ取ってしまうと、肌を乾燥から守るためにかえって皮脂の分泌が過剰になるそうです。肌を潤そうとして皮膚が一生懸命皮脂を出すそうなのです。 

また皮膚には常在菌と呼ばれる細菌が何種類もいて、それらの菌によって皮膚が弱酸性に保たれているそうです。

お湯で体を洗っただけではそれらの菌は皮膚に残っていますが、洗剤成分で洗い流してしまうと貴重な常在菌がいなくなってしまいます。

再び一定数の常在菌が皮膚に繁殖(という言い方をすると気持ち悪いですね)するまでには何時間もかかるとのことです。

 

髪の洗い過ぎ

薄毛を気にし始めている私は、髪や頭皮に良いシャンプーのやり方を模索していました。

 

ハゲの原因についてはいろいろなことが言われています。

遺伝、男性ホルモン、ストレス、栄養不足、血行不良など、様々な要因が考えられるようです。

その中でもよく耳にするのが頭皮の毛穴に皮脂が詰まって栄養が行き渡らなくなるからというものです。

これを受けて各シャンプーメーカーからは「頭皮の汚れや詰まりを取るシャンプー」だとか「皮脂をしっかりと洗い流すシャンプー」といったものが販売され、さかんに宣伝もされています。

頭皮を洗いつつ頭皮のマッサージもできるような、ゴム製の突起のついた洗髪用具も売られています。

 

しかし今の話とは真逆の意見もあるのです。

頭皮の皮脂を取り過ぎるとかえって皮脂の分泌が増え、毛穴の詰まりの原因になる。

シャンプー剤が頭皮を傷めて薄毛の原因になる。

シャンプーなどすることのないホームレスにはハゲがいない。

そもそもマイクロスコープなどの映像で見せられる毛穴に詰まっているものは、あれは皮脂ではない。

などなどです。

 

これらの意見を私はきちんと検証したわけではありません。あくまで噂で耳にしたことがあるといった程度です。

ですので何が正しいのかも何が間違っているのかも、私には分かりません。

 

しかし元々乾燥肌体質の私は、冬場の風呂上がりには顔の肌がカサカサにつっぱり、乳液を塗らずにはいられないくらいなのです。

顔がそうなのだから当然頭皮だってそんな状態だろうと想像できます。

そこにドライヤーを当てたとしたら、乾燥具合もひとしおだろうと思います。

その頭皮の状態が育毛に味方するとは思えません。

 

そこで今回、石鹸やボディーソープで体を洗わないことに加えてシャンプーも使わない生活を始めてみようと考えたのです。

自分の身体を使ったちょっとした人体実験のようなワクワクする気分です。

どんな結果が出るのか楽しみです。 

 

実践してみての感想

最初の1ヵ月 

体の脂分を落とし切れない不快感

私の体の洗い方は以下の通りです。

湯舟にお湯を張って浸かる、あるいはシャワーのお湯を体に当てるなどで体を濡らしたあと、スポンジやタオルは使わずに手で皮膚を撫でるだけという方法です。

 

しかしこのやり方では皮脂まではサッパリと取れてくれません。どうしても脂っぽい感じが拭いきれないのです。

 

脂分を除去するためには界面活性剤の力を借りなければなりません。しかし、界面活性剤というのは洗剤の謂わば別名であり、界面活性剤を使うイコール洗剤を使うことなのです。

ですので洗剤を使わない以上、脂分の完全除去は諦めなければなりません。

それに皮脂を取り過ぎないために洗剤類を使わないことにしたのですから、当然この結果で良いのです。

 

にもかかわらず、今まで快適なバスタイムを享受していた私にとって、この不快感、とまで言うと言い過ぎですが、「不サッパリ感」というのは気持ちの良くないものです。耳の後ろのヌルヌル感、首の後ろの脂っぽい感じ。

時期もちょうど真夏の、汗ばむどころか汗だくの季節だったのです。

 

もう少しサッパリさせることはできないものかと悩んだのですが、だからといってお湯の温度を上げたりシャワーの水圧を上げたりしても、それでかえって肌に不必要な刺激を与えたのでは元も子もない。

 

私はこの脂っぽい感じに慣れようと考えました。

生活習慣が変われば何かしらの違和感が出てくるのはあたりまえ。それを乗り越えられない人は生活習慣を変えることができない人なのだと自分に言い聞かせながら、サッパリ爽やかとは程遠い入浴を繰り返しました。 

 

におわないか心配

ところで誰もが抱く懸念と言えば、その取り切れていない脂が酸化したりして、加齢臭やミドル脂臭などと呼ばれているニオイの原因になるのでは、というものです。

 

しかし結論から言いますと、その心配はご無用です! においません。

 

「えっ、自分でそう思っているだけじゃないの?」

「普通、面と向かって『お前くさいぞ!』なんて言う奴いないからな」

「誰かに聞いてみたのか?」

などの声が聞こえてきそうです。

 

確かにそうです。誰の意見を聞いたわけでもなければ臭気測定器で計ったわけでもありません。そして自分自身のにおいには意外と気が付きにくいものだということも私は経験から知っています。

しかし本当にくさければ自分で分かります。

石鹸で体を洗っていても夏場であれば「今日はなんだか汗臭いな」などと感じる日だってあります。

私は石鹸で体を洗わなくなってから自分の体臭には神経質になっていますが、特に心配された問題は発生していません。

 

適度に脂分を残した体の洗い方をすると余計な皮脂の分泌が抑えられ、かえってにおいの発生も抑えられるのかもしれません。 

 

抜け毛が心配

頭皮の洗い過ぎによって頭皮にダメージを与えてしまう可能性があることは先ほど述べました。

その解決策としてシャンプー剤を使わないことにしたにもかかわらず、やはり不安は残ります。

世間の潮流とは逆の動きをすることへの不安です。

みんなハゲないようにとせっせとシャンプーにいそしんでいるのです。なのに私はハゲないようにと考えてシャンプーをしない。

本当に大丈夫なのか?

 

私の「湯シャン」方法は、シャワーでお湯を髪に当てながら手で撫でるように洗う。頭皮は指の腹で優しくこする。これだけです。

シャンプー剤を使っていないため、頭皮もやはりサッパリ感はありません。それは想定していた通りです。

 

ただ私の場合ラッキーだったのは、髪がとても短いということです。

丸坊主に毛が生えた程度です。

このためシャワーのお湯を頭皮に直撃させることができます。髪の長い人だったらお湯は髪にさえぎられて頭皮にぶち当たらないのです。

 

私は湯シャンによる頭皮の軽いべたつきにも慣れるように決意しました。 

 

4ヵ月経って分かったこと

肌の状態が良くなった

「肌がスベスベになった」と言ったら信じてもらえますでしょうか?

でもこれ、本当なのです。

そして皮膚が以前に比べて厚く、丈夫になったような気がします。

 

これは私の想像ですが、生きている皮膚の表面をうっすらと垢(というか死んだ皮膚)が覆っている状態の方が、垢に守られて肌の健康に良いのではという気がします。

垢や皮脂をきれいに取り除いてしまうと生の敏感な皮膚が露出して、外部からの刺激に直接晒されてしまいます。

 

体を洗わなくなってから肌が厚く丈夫になった気がするのは、垢が適度に肌を覆ってくれているからかもしれません。  

 

脂分は取り除かなくいい

入浴法を変えてしばらくは体や頭の脂っぽいべたつきが気になりましたが、それも次第に気にならなくなってきました。

 

理由の一つは慣れてきたということです。

もう一つは、風呂場の中にいてまだ体が濡れているときには脂っぽさを強く感じるのですが、風呂から上がって体が乾くとあら不思議、肌も頭皮もサラサラになるからです。

耳たぶや首の後ろ、脇の下もサラサラです。

 

理由はよく分かりませんが、結果的にそうなのです。

ですので脂っぽさ問題はこれで解決です。要は入浴中は多少の脂っぽさは感じるが、風呂から出て体が乾けばサラサラになるということです。

 

抜け毛の心配は杞憂に終わった

心配していた「ハゲはしないか?」「薄毛は進行しないか?」という問題について。

まだ4ヵ月しか経っていないということもあり結論を述べるには早いかもしれませんが、今の時点ではハゲの兆候や薄毛の進行の予感はありません。

 

湯シャンに変えてすぐの頃は、日中も頭皮のべたつきが強くなったように感じたことがありました。

 

他のネット記事の情報などから推測すると、私はシャンプー剤で頭皮を洗う生活習慣が長かったため、失った皮脂を補うべく皮脂の分泌の多い体質になっていたようです。

その体質は急には変わらないため、湯シャンをするようになった後もしばらく皮脂の過剰な分泌は続くようです。

 

これらの情報の真偽のほどは定かではありませんが、私の場合は2週間もすれば頭皮のべたつきは治まってきました。

人によっても季節によっても変わると思いますが、適度に皮脂を残した湯シャン生活を続けていくと、皮脂の分泌もそれに順応してくるのではないでしょうか。

 

新しい入浴法に変えて良かった点

入浴時間の短縮

入浴に要する時間が半分になりました。

もちろんのんびりと入浴を楽しみたい方はそうすればいいでしょう。

しかし時間に余裕のない時、出勤前、早く入浴を済ませて早く寝たい時。こんな時には今の入浴法に変えて良かったなとつくづく思います。

 

すすぎがちゃんとできているか神経質になる必要がなくなった

これについては少し説明を要するかもしれません。

私は以前の石鹸やシャンプー剤を使った入浴をしていた頃に、特に気を遣っていたことがあります。

それは何かと言いますと、洗った後のすすぎで洗剤成分をちゃんと洗い流し切れているかということです。

 

体を洗ったあと湯舟に浸かるのであればその心配はほとんどありません。石鹸の成分はお湯に溶けて皮膚の上からきれいになくなるでしょうから。

しかしシャワーを使うことが多かった私は、シャワーで泡を洗い流しながら「どれくらいの時間シャワーを当てていれば石鹸やシャンプーの成分が完全に取り除かれるのか」確信が持てませんでした。

 

体に洗剤が残っているのがとても嫌なのです。

ですので私は恐らく必要以上の時間、過剰にすすぎをしていたに違いありません。

目に見えるものではないので、どこまですすげば完了したのか分からないからです。

 

このすすぎ行為が意外とストレスになっていました。

今はもうそのストレスはありません。

 

まとめ

僅か4ヵ月の経験からの結論になりますが、体は特に洗う必要がないというのが私の持論になりつつあります。

体なんて適当に洗っておけばいい。たとえちゃんと洗えていないところがあったとしても別に何の問題もない。

 

実際のところ私はほとんど体を洗っていません。

シャワーをサッと浴びて、手の届く範囲は手で軽く撫でて、背中など手の届かないところはシャワーを当てるだけ。

 

驚くべきことに、これでまったく問題ございません。

においもしない、垢も出ない。ニキビ、吹き出物、水虫などの肌トラブルも一切ありません。

 

「脱」石鹸生活をしている人の中には、人によっては脇の下や足の裏や、その他気になるところだけは石鹸で洗うという人もいるようです。

また週に1度だけはボディソープやシャンプーを使うという人もいるようです。

しかし私は一切ボディソープやシャンプーを使わないで夏の4ヵ月を過ごしてまったく問題ありませんでした。

 

今まであんなに一生懸命、強迫観念に駆られたように洗っていたのは何だったのだろうかと思います。

 

化粧をする人はクレンジングで落とした方が良いのかもしれませんが、そうでなければ顔を洗う必要もありません。

私は顔もお湯をかけてちょっとこする程度ですが何の不都合も発生していません。

 

今後も私は石鹸やボディーソープ、シャンプーを使わない生活を続けていくつもりです。

それらを使うのが悪いとは一切思っていませんし、洗剤メーカーに対して「ひとこと物申す」などという気持ちもありません。

たんなる個人的な趣味としてやっていくつもりです。そして必要なときには洗剤の助けを借りるでしょう。

 

生まれた時から体を洗うのが当たり前で、洗わないと大変なことになると恐れて生きてきましたが、実はそうでもないことが分かり、大きな学習をした気分です。

ということは、入浴以外の様々な生活習慣でも「これが当たり前」だと思い込んでいることを疑ってみる価値はありそうです。

 

あとがき 

この記事の中で私は「本当のことは知りませんが」とか「聞いた話ですが」とか「という意見もあるようです」などの一見責任回避とも取れる言葉を多用しています。

しかし今回、あえてうるさいくらいにそのような言葉を用いているのは、一般に正しいと言われている情報が、実はその正反対だったりする可能性が大いにあるからなのです。

 

早寝早起きが身体にいいなどという大昔から言われてきたような健康法だって、本当にそうなのかどうか分かりません。中にはそれに異を唱える人だっているのです。

まあ、あくまで早寝早起きの件は極端な例で、おそらくは本当に早寝早起きは健康に良いのでしょう。

 

しかし情報に接するにあたっての基本的な態度として「それが正しいかどうかなんて自分は実際には知らないんだ」ということを常に忘れないようにしようと思っています。

それでこんな書き方をしている次第です。

決して万一の時の責任逃れや保身のためばかりではないのです。

 

確かに断定口調で強く言い切った方が迫力や説得力は増すとは思います。

自信なさげに恐るおそる語るくらいなら黙ってろという気持ちもあります。

でも、強い口調で自信満々に語るなんて簡単で造作もないこと。誰にだってできます。

むしろその情報の真偽の曖昧さ具合をそのまま反映した語り口こそが信用できる文章なのではないでしょうか?

7正しそうで3疑わしいのであれば、その割合をそのまま言語で表現する努力をしなければと考えています。

「大丈夫です」というまぎらわしい断り文句に代わる言い方がないか考えてみた

夜に運転代行のアルバイトをしています。

ここ1年半ほどは、事務所でお客様からの電話対応と自社の車両への配車業務をしています。

その電話のやり取りでしばしば相手から言われることのある「大丈夫です」という言い方について今日は書いてみようと思います。

 

飲食店から、あるいは個人のお客様から、代行車を1台回してほしいという依頼の電話があったとします。何分で来てくれますかと。

 

私はその時点での全車両の運行状況と、入っている予約の状況から判断して「30分でお伺いできます」と答えたとします。

 

すると相手から「では大丈夫です」という返事をされることがあるのです。

 

この「大丈夫」をどのような意味に受け取れば良いのでしょうか?

 

1)それで大丈夫です。来てください。

2)それなら来てくれなくても大丈夫です。要りません。

 

2通りの解釈が可能なのです。

そのどちらなのかをハッキリさせなければなりません。

 

さもないと必要とされているのに行かなかったり、逆に要らないと言われているのに行ってしまうことがあるからです。

 

実際に私が配車をしていてそのような間違いが何度かあったのです。

 

私の経験上では「大丈夫です」という言葉は「要らない」という意味で使われていることがほとんどです。

ではどうして人ははっきりと「要らない」と言わないのでしょう。

「(来てくれなくて)大丈夫です」というまぎらわしい言い方をするのでしょう。

 

その理由は「要らない」という強い断り文句を言うことに抵抗を感じるからでしょう。拒絶したように受け取られないかということを懸念して、やんわりと断ろうとして「大丈夫です」という言葉を選んだのだろうと想像します。

 

私にも思い当たることがあるのです。

 

コンビニエンスストアで弁当を買って、店員さんから「温めますか?」と尋ねられた時に「大丈夫です」と答えていたことがあったのです。

これは「温めなくていい」という意味で使っており、店員さんに誤って解釈されたことはありませんが、私の中で自分の発した言葉に納得がいかない気持ちがありました。

「温めなくていいです」という、ただそれだけのことを伝えるだけなのに、それをハッキリ言葉にすることをためらう気持ちがあったのです。

 

英語の「ノーサンキュー」やフランス語の「ノンメルシー」のような、明確に断りつつ、なおかつ相手の心遣いへの感謝も伝わる言い方があれば良いのですが、日本語で「いいえ、ありがとう」と直訳風に言ってもあまりしっくりときません。

 

考えた末、現在の私は「温めましょうか?」と店員さんにきかれたら「いいえ、そのままで結構です」と答えるようにしています。

 

では運転代行の場合ではどのような断り方があるでしょう? 

 

運転代行との電話のやり取りに慣れたお客様や店員さんの中には、上手な断り文句の「型」を自分の中に持っていらっしゃる人がいます。

 

例えば

「では検討して、頼む時にはまたお電話します」

「30分ですか、では他をあたってみます」

「今回は結構です。また次回お願いします」

などです。

 

なかなかいいですね。

「要らない」という言葉を使わずに要らないことを伝えようとしているのです。

 

他にはもっと単刀直入にこんなふうに言う人もいらっしゃいます。

「30分もかかるの~? じゃあいらねぇ」

「今回はナシってことで」

「キャンセルキャンセル、いらないよ(ガチャン)」

 

分かりやすくていいですね。

 

私が運転代行に電話をかけた客の立場だったとしたら、どんなふうに断るか考えてみました。

 

私だったら、そうですね。こんな感じかな。

「30分ですか、お忙しいんですね。今日はちょっと急いでいますのでまた次回お願いします」

 

ハハハ、まぁ代行の電話番をしている立場から言えば、断るのにそんなに気を遣ってくれなくてもいいですよ。嬉しいですけどね。

誤解なく意味が伝わることが一番かもしれません。

 

断り文句に限らず、人に何かを伝えようとするときに「ノーサンキュー」のような便利なひと言があればいいのになと思うことが時々あります。

でも外国語にはあって日本語にないこと、逆に日本語にはあって外国語にないこともたくさんあることでしょう。

だからひと言で済まそうとせずに、ちょっと長くなってもいくつかの言葉をつなげて、要件と気持ちがきちんと伝わるようにしていこうと思っています。

 

最近は言葉を縮めたり略したりして会話時間を1秒でも短縮しようとする風潮があります。

時代の要請でもあるのでしょう。

 

同じことをクドクド言ったり、前置きが長かったり、回りくどくて要領を得ないような話をする人との会話にはイライラしてしまうことが私にもあります。

 

ですので言葉の省エネ化と内容の充実という2つを上手くバランスさせていく工夫が必要だろうと思います。

 

おっと、これくらいで切り上げましょうかね。

「オマエ、話がなげーよ」なんて声が聞こえてきそう。

さようなら。

ベルトコンベアの偉大さにみんな気付いていない!

ベルトコンベアという装置は誰もが知っていると思います。

しかしながらこの装置がいかに偉大な働きをするかについて、深く思いを巡らせる人は少ないのではないでしょうか?

 

私は最近になってベルトコンベアの持つ大きな力に気づかされました。

そこで、今日はあなたにもこの装置の重要性を伝えたく、この記事を書くことにいたしました。

 

ベルトコンベアとは

 

ご存知ない方はいらっしゃらないと思いますが、一応念のためにベルトコンベアについて簡単に説明しておきます。

 

ベルトコンベアとは、帯状のベルトの上に物を乗せ、ベルトの動きによって物を移動させる機械です。

ベルトの端と端とはつながっており、始点から動き始めたベルトは終端まで移動した後、作業台の下を回って再び最初の位置に戻り、一巡目と同様に終端へ向けて動きます。

ベルトは飽きもせず、疲れも知らずにメリーゴーランドのようにグルグルと回り続けます。

 

非常に単純な機械です。

ベルトを掛けているプーリーをモーターで回転させているだけなのです。

 

素晴らしき発想 

 

しかしながら私が目を見張ったのは、ベルトの端と端とをつないで「循環させる」というその発想です。

 

この装置が発明されていなかった時代に、人々は大量の物を一定方向へ運ぶにあたって一体どのような方法を取っていたのでしょう。

 

エジプトのピラミッドを作るために巨大な岩を運ぶという場合には、何本もの丸木を並べてその上に岩を乗せて転がしたのかもしれません。

 

またもっと小さな物、例えば丸木と丸木の間に落ちてしまうような物を運ぶような場合には、丸木の上に板を乗せて、その板の上に物を乗せて運んだのかもしれません。

そして終点まで行き着いた板は、誰かが担いで始点へと持ち運び、再び始点から流し始める。

このような方法が想像されます。

 

ところがベルトコンベアでは、終点に至ったベルトを始点へと持ち運ぶ必要がないのです。

何と! ベルトは作業台の「下側を」回って始点へと戻ってくる。それがエンドレスで繰り返される。

 

しかも実に簡単な仕掛けでそれが可能なのです。必要とされたのは「循環させる」という発想だけだったのです。

 

工場でのベルトコンベアの働き

 

私は昼間ある食品工場で働いています。

大手コンビニエンスストアに納品する弁当類を作っているのです。

 

この工場での生産に必要不可欠なもの。

もちろんまず第一に労働者です。

しかしそれと同等に必要な設備。それがベルトコンベアなのです。

 

ベルトコンベアなしに生産は不可能と言っても過言ではありません。

 

弁当製造の手順をざっとご覧いただきますと次のようになります。

例えばハンバーグ弁当というものを作るとします。

 

10メートルはあろうかというベルトコンベアの左右に作業員が並んで、自分の担当する食材を手に待ち構えています。

 

先頭の作業員が弁当の容器にご飯を量って盛ります。

2番目の作業員がそのご飯を平らにならします。

3番目の作業員はご飯の上にゴマをふりかけます。

4番目の作業員はご飯とは仕切られた隣のスペースにハンバーグを載せます。

5番目の作業員はハンバーグにソースを塗ります。

6番目の作業員はハンバーグの横にブロッコリーを置きます。

7番目の作業員は炒めたタマネギを規定量はかってブロッコリーの脇にトッピングします。

8番目の作業員は人参。

9番目の作業員はポテト。

10番目の作業員はひじき。

11番目の作業員は容器の周りにソースやタレが付いていたらガーゼで拭き取ります。

12番目の作業員は容器に蓋をします。

 

その後製品はベルトコンベアに流されてラッピングする機械を通り、金属探知機を通り、品名や金額の記されたバーコードラベルを貼り付けられます。

最後に最後尾の作業員が完成された製品を箱に詰めていきます。

 

大雑把にいうと以上のような流れで弁当は作られていきます。

 

ベルトコンベアの動く速さはもちろん調節可能です。

製品は作業員が作業可能な限界ギリギリのスピードで、隙間なく次々と流されてきます。

モタモタしていると通り過ぎていってしまうほどの、それはもう、暴力的と言っていいほどの速さで製品は流れてくるのです。

 

「流れてきた容器に人参を1個置くだけだろう」と思うかもしれません。

 

とんでもない!

それが間に合わないほどのスピードなのです。

 

時折作業員の間から悲鳴が上がります。

「待って待って! 止めて止めて止めて!」

 

 

ここでベルトコンベアの話に戻りますが、もしベルトコンベアなる装置が無かったとしたら、このように高効率な生産ができるだろうかということです。

 

容器を1つ1つ隣の人に手渡しで渡していくようなやり方で生産できるでしょうか?

そんなことをしていては時間が非常にかかります。

従って人件費もかさみます。

それは結果的に製品の価格に反映されるでしょう。480円でハンバーグ弁当は買えなくなるのです。

 

ベルトコンベア1台がいくらで販売されているのか私は知りません。

リースなのかもしれませんし、耐用年数がどのくらいのものなのかも知りません。

 

しかし言えることは、いくら高額なものだったとしてもこの機械なしに弁当の製造は不可能だということです。

 

そしてベルトコンベアが使われているのは弁当工場だけではありません。

自動車工場でも、電化製品の工場でも、その他あらゆる産業の現場で使われているはずなのです。

 

私たちが一体どれくらいこの機械の恩恵を受けていることか。

 

しかしベルトコンベアはその働きに見合うだけの脚光を浴びているとは思えません。

構造がシンプル過ぎるのが原因でしょう。

目立たないし、影の薄い存在なのです。

派手な動きをする産業用ロボットなどの方が人目を引くし注目されるのです。

 

ベルトコンベアを発明したのがエジソンなのか誰なのか知りませんが、いやぁ、すごい機械だなと最近つくづく実感したので記事にしてみました。

 

それではまた。

夏の思い出 チラッと見えた小さな打ち上げ花火

夏が終わりましたね。

今気がついたのですが、春夏秋冬という四つの季節において、その季節が「終わる」と表現するのは夏だけなのではないでしょうか?

 

春が終わるとは言いません。

春には「なる」ものですし、秋は「深まる」もの、冬は「始まる」ものですね。

夏が終わると表現するのは、きっと夏の終わりを惜しむ気持ちがあるからでしょう。

 

みなさんは夏を満喫されましたでしょうか?

世間では「平成最後の夏」ということで、少し特別扱いを受けた今年の夏でしたが、私はというと海にもプールにも行かず、バーベキューもせず、花火も見に行かず、夏らしいことは何一つせずに仕事と睡眠だけの毎日を過ごしたのでした。

 

そんな残念な私なのですが、やはり夏の終わりというのは夕暮れ時と同じく、切ないような人恋しいような物悲しい気分になるものです。

 

そんなメランコリックな気分に浸りながらこの文章を書いています。

なので多分オチはありません。ただの独白、たわごとの類いになるでしょう。悪しからず。

 

 

その日仕事が終わって、私は車を走らせていました。

どこかへ行くわけではありません。家に帰るのです。

 

すると遠く前方に、ピンク、緑、オレンジの打ち上げ花火が上がりました。

1円玉くらいの小さな花火。

 

それを見た途端、チクッと胸を刺すものがありました。

私は慌ててその痛みを打ち消しました。「いい歳して何が『チクッ』だよ」と。

 

その夜は県内で最大級の花火大会があったのです。

私はこの県にやってきて19年になりますが、まだ一度も見に行ったことがありません。

 

ディズニーランドにも死ぬまでに一度は行ってみたいと思っているのですが、それ以上にこの花火大会に行くのが私の夢なのです。

 

夜空を彩る大輪の花火。

その下では老若男女の歓声。

ドンドンと胸を打つ破裂音。

浴衣の女の子。

屋台のたこ焼き、焼きそば、わたがし。

 

車のフロントガラス越しに私はその幻を見たのです。 まるでパンチラのように一瞬だけ。

 

来年こそは絶対に見に行くぞ! と決意を固めた私は、悔しさに歯ぎしりしながらアクセルを踏み込み、家に逃げ帰ったのでした。

 

今年の夏のしょっぱい思い出話でした。

だから言っといたでしょ、オチはないって。

種は「植える」もの? それとも「蒔く」もの?

先日「アボカドの種が芽を出してくれた!」という記事を書いたのですが、その時に私はアボカドの種を「植える」という表現を使いました。

それがずっと気に掛かっていたのです。

 

種は「蒔く」ものであって「植える」ものではないのではないかという疑念があったのです。

その文章を書いている時にすぐに調べれば良かったのですが、ものぐさな私は調べもせずに早々に記事を公開してしまいました。

 

それから約3週間後の今日になってやっと調べてみたのですが、いくつかの辞書を参照してみた結果から考えると「アボカドの種を植える」は間違いではなさそうです。

 

「蒔く」と「植える」の違い

 

「蒔く」というのは、小さい種をあまり狙いを定めずにばら撒くというイメージです。

「畑の概ねこの辺り」だとか「この植木鉢」「このプランター」などのある程度の標的はあるものの、その範囲にパラパラと散らすのならばそれは「蒔く」という表現になるようです。

 

対して種を1個1個丁寧に土の中に埋めるといった場合には「植える」という表現になります。

 

今回私は種の上下の向きや、どのくらいの深さまで土に埋めるか、2個の種をどのくらいの間隔をあけて置くかということまで気を配りつつ種を配置しました。

ですので「植える」という表現で良かったようです。

あぁ良かった。

 

アボカドの種はピンポン玉くらいの大きさがありますが、その種を100個くらい畑にばら撒くのならば「蒔く」で良いのでしょうね。 

 

「アボカド」?「アボガド」?「アボガト」?「アヴォカド」?

 

余談ですがアボカドという植物自体も日本語のカタカナで様々な表記がされているのを目にします。

「アボガド」や「アボガト」というのもよく見かけます。

 

詳しく調べたわけではありませんが、ウィキペディアによれば英語名のavocadoの発音に倣って「アボカド」という表記が正しいとのことです。

 

「アヴォカド」も良さそうだけどそんな表記は目にしたことがないなぁと思ってちょっとネットを覗いてみたら、驚きました。

結構ありますね、「アヴォカド」。

 

自動車のジャガーを「ジャギュア」とか「ジャグヮー」とか「ジャグァー」なんて言うことがあるように(古!)、私もカッコつけて「アヴォカド」って呼んでみようかな。

 

とも思ったけど、グーグルで検索されにくくなっても困るので無難に「アボカド」にしておきましょうかね。

アボカドの種が芽を出してくれた!

アボカドが好きで、たまにスーパーで買ってきます。

抹茶色をしたクリーミーな果肉を食べるのがその第一の目的ですが、食べた後に残される、あの大きな種を見るのも楽しみなのです。

 

なんとも頼もしい、立派な種ではありませんか。ギュッと握りしめたくなりますね。

あの種を見ていて「これを植えたい」「芽を出させたい」という欲望がムラムラと湧いてこない人などいるでしょうか?

 

私は過去に一度土に植えてみたことがあるのですが、いくら待ってみてもうんともすんとも言わず、芽は出ませんでした。

それ以来アボカドの栽培意欲は失われていたのですが、やはり食べるたびにあの種を目にすると、どうしても植えたい気持ちが湧き上がってきます。

かくして二度目の挑戦とあいなったのでした。

 

アボカドは熱帯の植物なので、それにふさわしく植える時期も初夏を選びました。

 

ネットで調べてみるといろんな発芽のさせ方が紹介されています。

中でも「へぇー、そんな方法を考える人がいるんだ」と興味深く思ったのは、種の側面に三方向から爪楊枝(つまようじ)を刺して、水を入れたコップのフチに爪楊枝を引っ掛けて、種のお尻の部分だけが水に浸かっている状態を保つというものです。

このやり方だと、芽だけでなく、根が伸びてくる様子も見られます。

 

この方法の斬新さは、種に爪楊枝を「突き刺す」という点にあります。

種は今はまだ生きてはいないかもしれませんが、死んでいるという言い方も違うという気がします。

これから命を宿して生き始める、その前段階にある物体。

 

きれいな水によって生命のスイッチを入れ、優しいまなざしで見守り、発芽を祈る。

その種に爪楊枝を「突き刺す」という恐るべき発想。

 

「そんなことをして種は大丈夫なのか?」「種は死なないのか?」「種の内部にある、これから芽や根に育っていくいわば『内臓』を傷める危険性はないのか?」

そんな諸々の心配が頭をよぎるのですが、園芸の専門家諸氏によれば問題ないとのこと。

 

ただ私は植物に「癒し」を求めているというわけではないけれども、突き刺された状態の、痛ましい姿の種を毎日見るのはなんだか精神衛生上良くない気がして、別の方法を試みました。

 

その方法とは実にオーソドックスなもので、土の中に種の下3分の1ほどを埋めておくというものです。ま、ほとんど土の上に置いてあるといってもいいくらい。

そして土を乾かさないように1日に何度か水やりをします。

 

こんな風にして私のアボカド栽培が始まりました。

ベランダで育てている他の植物たちに、アボカドの種が仲間入りを果たしたのです。

1つの鉢に2個の種を植えました。

 

しかしながら、1週間たっても2週間たっても芽が出る気配はありません。

やがて種を覆っている茶色い薄皮が剥がれてきて、白い裸身が現れました。まるでピーナッツの薄皮が剥けるみたいに。

ただこれは種の成長による変化と言うよりも、風化に似た現象のように私には思われました。

 

そしてもうしばらくすると、こんどは種が縦にパックリと割れてきました。

これが発芽に向けての積極的な、前向きな変化なのかどうかは分かりません。

ともかく水やりを続ける以外に、種のために私にできることはないのです。

 

1ヵ月半ほどが過ぎた頃のことです。

私は発芽の望みを半ば捨てていました。

この頃には種の様子をまじまじと観察することもなくなり、他の植物に水をやるついでに種にも水をかけているといった状態でした。

毎日疲れ切って仕事から帰って来て、薄暗いベランダの植物たちに淡々と水をやる日が続いていたのです。

 

そんなある日のこと、昼間明るいところで種をよく見てみた私は驚きました。

なんと割れた種から、爪楊枝のような細い芽がシュッと伸びているではありませんか。しかも2個の種が同時にです。

 

アボカドが発芽するまでには時間がかかるとは聞いていましたが、まさか1ヵ月半もかかるとは。

バジルのように4〜5日で芽を出すような細かい種もありますが、種が大きくなるほど発芽までに時間が必要なのでしょうか?

 

芽を出した後のアボカドの成長は早いです。日増しに大きくなって、細い茎(というか幹)に似合わないほど大きな葉をしげらせます。

 

トロピカルな雰囲気の漂う、濃い緑の葉っぱ。

できれは地植えにして木登りできるくらいの大木に育てたいけれど、冬には雪が積もるこの土地では叶わぬ夢。

 

冬には部屋の中に入れて、春になったらまたベランダに出してを繰り返しながら、だんだん大きな鉢に植え替えていって・・・。

と想像しているうちに、いつか持ち上げられないくらい大きくなったらこのアボカドはどうなってしまうのだろうと、まだこの世に生を受けたばかりの幼い木の将来を案じてしまう心配症の私です。

 

「お前の将来の方がよっぽど心配だぞ」という気もするのですがね。

「愛猫」を「アイビョウ」と発音することを知ってビックリした!

「愛猫」

これ、なんて読むかご存じですか?

恥ずかしながら、私はずっと「あいねこ」って読むものだと思っていました。

 

ただそう確信していたわけではなく、ひょっとしたら「あいびょう」かもなっていう疑念もあり、人前ではその言葉は使わずにいたのです。

 

文章に書く時には発音を気にする必要がないので「愛猫」と表記していましたが、自分の心の中での発音は「あいねこ」だったのです。

 

正式な読み方をちゃんと調べなければという気持ちはずっとあったのですが、調べないまま放置して今まで生きてきました。

 

その私が最近になって、重い腰を上げてようやく調べてみたところ、ガッカリしたことに「あいびょう」が正しいことが判明したのです。

「あいねこ」であってくれという私の願いはかないませんでした。

 

なぜガッカリしたのか?

ただの読み方なのだから別にガッカリする必要などないのかもしれません。

しかし私はかなり落胆して肩を落としました。

 

「あいねこ」の方が良かったのに!

 

 

「びょう」という音読みは猫という愛らしい生き物にどうしてもそぐわない気がするのです。

「びょう」というよりも「ビョウ」とカタカナで表記するのが似つかわしいこの発音からは、「秒」「病」「鋲」など、なんだか交感神経を過剰に刺激するものばかりがイメージされます。

 

「愛犬」は「アイケン」で良いと思います。

「愛妻」も「アイサイ」で良い。

 

「愛車」=「アイシャ」

「愛人」=「アイジン」

「愛国」=「アイコク」

特に異論はありません。

 

しかし「愛猫」=「アイビョウ」は私には使えないなという気がします。

 

ただ慣れていないだけでしょうか? 使い慣れてくればだんだんと違和感もなくなってくるのでしょうか?

 

「愛娘」は「まなむすめ」と言いますし「愛弟子」は「まなでし」と読みます。

それに倣えば「まなねこ」っていう読み方も良いのではないかという気もするのですが。

 

日常生活において、口語で「アイビョウ」と表現されるのを聞いたことがありません。

「昨日アイケンを散歩させていたときに~」などという会話はあるかもしれませんが、「あなたのアイビョウにはどんなエサをやってるの?」なんていう会話はないでしょう?

 

私にとって「アイビョウ」は「アイパソコン」と同じくらい精神的拒絶反応を起こさせる言葉ですが、こればかりはどうすることもできません。

 

どこかの偉い国語学者がこの読み方に決めたのか、もしくは平安時代から使われてきた言葉なのか、「アイビョウ」の歴史を私は知りませんが、これが正しいというのならばそれに従うしかないでしょう。

 

これからしばらくは、ウチの愛猫ピヨピヨ(仮名)を撫でながら「アイビョウ」「アイビョウ」と繰り返し唱えて、慣れていくのを待つしかないでしょう。

 

将来私の家にも人工知能搭載ロボットが来たときに、「私のアイロボットが」なんてすんなり言えるための練習も兼ねてね。

 

なんてね。 

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