荒川光のブログ

日々の生活のなかで感じたこと、思ったこと、考えたことを気軽に書いていくブログです。

「ダメ」という言葉を使うのをやめませんか? 「ダメ」と言いたがる人の5つのタイプ

私が働いている職場では「ダメ」という言葉をよく耳にします。

仕事上の指示として使われることがほとんどで、「それをしてはダメ」「そのやり方ではダメ」「こんな結果ではダメ」などのような文脈で口にされます。

 

短くて発音しやすく、1秒で言い終われるので忙しい現代人向きなのです。おまけに何故ダメなのか、どの程度ダメなのか、ではどうすれば良いのかについては一切言及しなくとも、ただ「ダメ」の一言で相手を黙らせてしまえる無慈悲さも人気の秘密でしょう。「ダ」という強い音がその場の雑音や空気を断ち切って相手の耳を突き刺し、一撃で相手の行動を制止させる効果があります。

 

そんな便利な「ダメ」なのですが、結論から先に言わせてもらうと私はこの言葉が嫌いです。相手の言動のみならず、人格や考え方も含めた人間全体を否定しているように聞こえるからです。「ダメ」と言われると「ダメな人間だ」と同義に受け取ってしまうのです。

 

こんな風に感じるのは私だけでしょうか? 他の人たちは特に違和感なくこの言葉を発したり受けとめたりしているのでしょうか?

 

私は「ダメ」という言葉を自分が言われるのはもちろんのこと、他人が他人に使っているのを聞くのも不愉快です。それだけではなく、ドラマや小説の中の会話で「ダメじゃん」などと使われているのを見聞きするだけでも腹立たしく感じてしまいます。

今日も日本中のあちこちで、朝から晩まで1000万回もこんな言葉が発せられているのかと想像すると本当に気が滅入ります。

 

そこで、どうしてこんなに頻繁に「ダメ」という言葉が人々の口にのぼるのかをちょっと考えてみました。

 

そもそもこの言葉を使うことに抵抗がない

感受性が鈍いのか、この言葉に特別嫌悪を感じておらず、気軽な否定表現として何らのためらいもなく使用している人がいます。こういう人が使う「ダメ」は同じ「ダメ」でも屈託がない分嫌味にならないので、慣れてくればあまり気にならなくなることが多いです。この人の言う「ダメ」はまぁ許せるか、というように、使う人によって感じ方が変わることがあります。

 

無精者が手近なところに転がっている言葉を拾って投げつける

考えるのを面倒くさがる人は、パッと頭に思いついた言葉を思考のフィルターを通さないまま口にします。似たような意味の言葉であれば何でもいいのでしょう。大体の意味が通じて結果的にこちらの望む通りになるのならば言葉は選ばないというタイプです。

日本語には「ダメ」という言葉以外にもたくさんの言葉がありますよ。他の言い回しも試してみてはいかがでしょうか? これは「カワイイ」しか言えない女の子にも言っておきたいことです。

 

適切な否定表現のボキャブラリーがない

上記のタイプと重複する部分がありますが、他に言葉を知らず、○か×か、白か黒か、といった大雑把な表現しかできないため、「良い」の反対として「ダメ」を使うしかない人。

言葉を使って様々なニュアンスで表現することができるのだということを知ってもらいたい。

よく歌の歌詞などで「言葉では表せない」とか「言葉では伝えられない」とか「こんな時に言葉は役に立たない」などと言葉を軽視し、言葉の力を低く評価しているのを耳にしますが、一体言葉で表現するための努力をどれだけした上で言っているのかと問いただしたいです。

私も言いたいことを上手く言えない歯痒さを毎日のように感じていますが、それは言葉のせいではなく私のせいなのです。「言葉なんて役に立たない」のではなく、役に立たないのは自分だということに気付いてもらいたいものです。

古今東西の偉大な文学作品の1ページでも読んでみれば、言葉の可能性に目を開かれるでしょう。たとえ自分には言葉を使いこなすだけの能力がないにしても。

 

自分の方が立場が上だということを主張したい

 「ダメ」という言葉は目上の人には使わないはずです。必ず自分よりも格下に対して上から使う言葉なのです。同僚などでどちらが上か下か分からないような関係において「オレが上だ、お前が下だ」ということを定義したい人が、相手のミスに乗じてここぞとばかりに使います。

 

これを機に可能な限り相手を叩きたいという幼稚な加虐趣味の表れ

「ダメ」という言葉の効果、威力を知っていて、あえて使う意地悪な人が時々います。自分が狙った人に必要な分だけ使うのであれば、その相手から嫌がられるだけで済むかもしれませんが、注意しなければならないのは言葉遣いは癖になるということです。特に品のない言葉ほどその傾向があります。ここに例を挙げるのは差し控えますが、簡単にいくつも思いつくことでしょう。「ダメ」が口癖になっている人の周りには人が寄り付かなくなると思います。

 

まとめ

「ダメ」という言葉を使ってもよいのは、理由を説明する時間がないような緊急を要する場合か、相手を威嚇してでも有無を言わせずその行動を制止させる必要がある場合だけに限るべきだと思います。

例えば小さな子供がボールを追いかけて、車が来ている車道へ飛び出そうとするのを止める場合などです。

私はうちの猫が台所のテーブルの上に跳び乗った時にだってそんな下品な言葉は使いません。うちの猫はダメじゃない。ただ味噌汁を舐めてみたかっただけのいたいけな猫なのですから。

 

以上、まったく個人的な意見を述べさせていただきました。反論も多々あろうかと思いますが、こんな考えの人も世の中にはいるのだなくらいに軽く流し読みしていただければありがたいです。

猫を事故から守るためにできること

猫たちがそれぞれに与えられた天寿を全うできれば良いのですが、中には不慮の事故により命を落としてしまうケースがあります。

 

今回はそんな悲しい事故を防ぐために私たちに何ができるのかを考えてみようと思います。

主に家猫に対して家庭でできる取り組みについて、私が実践していることを思いつくままに書いていきます。

もし何か参考にしていただける部分があれば、あなたの愛猫のためにぜひお役立てください。

 

 

そもそも家庭内の事故でどれくらいの猫が犠牲になっているのか、私はその数字を知りません。

ですが、その数は決してゼロではないはずです。

それでは安全なはずの家庭内に一体どんな危険が潜んでいるのか?

 

猫を踏まないように注意

 

まず考えられるのは、誤って猫を踏んでしまうということです。

 

そんなことが本当にあるのでしょうか?

私は踏みそうになってヒヤッとしたことはありますが実際に踏んだことはありません。また踏んで死なせてしまったという話をきいたこともありません。

しかし可能性としては十分にあり得ることです。

音もなく歩いてきた猫が知らない間に自分の後ろで寝そべっていて、気が付かずに踏んでしまうということは考えられます。

 

私は部屋の中では、立っている状態から一歩でも足を踏み出すときには必ず足元を確認するようにしています。

面倒くさいなと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、習慣になればどうってことはありません。

 

ふとんの中や衣類の下に注意

 

寒い冬の日などは、猫が掛布団の中に潜り込んでいることがあります。

それに気付かずにベッドの上に跳び乗ったりしたら、大惨事となります。

また似たような状況として、取り込んだ洗濯物の山の中に猫が隠れているということもあるかもしれません。

猫が隠れているかもしれない場所で何か行動を起こすときには、常に注意を怠らないようにしたいものです。

 

ドアを閉める前の確認

 

猫は飼い主の行くところ行くところについてくることがあります。

うちの猫ピヨピヨ(仮名)もそうなのです。

トイレに行くにもついて来ることがあります。

そんな時に、自分がトイレに入ったあと、後ろを確認せずに後ろ手にドアをバタンとしめたりしたら、ついてきた猫の首やしっぽを挟んでしまうかもしれません。

 

ベランダに出るときなども、猫が後ろからついてきて敷居のところで外の様子を窺っていることがあります。

猫に気付かずにベランダのあの重いドアを勢いよくしめたりしたら、猫はどうなるでしょう。

 

「ドアを閉めるときは確認をしてから」を習慣にしています。

 

刃物の放置は厳禁

 

包丁、カミソリ、針、ナイフ、カッター、日本刀(ないと思いますが)などの猫の身体を傷つける可能性のある物体は猫の手の届くところに放置しないようにしています。

 

好奇心旺盛な猫は何でも触ったり舐めたり蹴とばしたりしたがります。

洗った後の包丁をシンクの横のカゴに入れて乾かしておくような場合でも、私は必ず刃をむき出しにしないようにしています。

 

洗剤、漂白剤などのつけ置きの液体の管理

 

台所で食器を漂白剤につけ置きにしていたり、トイレや浴室を洗浄中のままドアを開けっぱなしにしていたりすると、猫がその水を飲んでしまう可能性があります。

「えっ、うちの猫はそんな水飲まないよ」という方もいらっしゃいますでしょうか?

お上品な猫ちゃんですねぇ。でもあなたが知らないだけで案外トイレの水なんか飲んでるかもしれませんよ。

 

うちのピヨピヨはいつもの食事スペースに新鮮なおいしい水をたっぷりと用意しているにもかかわらず、浴室の床面に溜まっている水たまりの水を好んで飲んだりするのです。

ですので猫が飲みそうな液体、食べそうな食品で、猫の健康を害する可能性のあるものは猫が近づけないような配慮をしています。

 

冬場のストーブ、ガスコンロの火

 

暖房にファンヒーターやエアコンを使っている方が多いと思いますが、私は昔ながらのストーブを愛用しています。

オレンジ色の火を見ていると、薪を燃やす暖炉ほどではないですがやはり気持ちまで暖かくなるような気がします。

それにヤカンをかけたり煮物を保温しておいたり餅やシイタケを焼いたりもできるからです。

そんな便利なストーブですが、心配の種は猫の火傷です。

ストーブの焼けた天板に跳び乗るようなことはさすがにしないでしょうけれども、ヤカンをひっくり返したり、しっぽが網のすき間から中に入って火が付くなどの恐れはあります。

たとえ短時間でも部屋を留守にする時には消火を徹底しています。

 

猫を外に出さない

 

家で猫を飼っている人は、猫を外に出させない方が良いと思います。

その一番の理由は猫を交通事故の被害に合わせないためです。

猫を外に出させないというと「猫を監禁している」という印象を持ってしまう方もいるかもしれません。猫の外出の自由を尊重したいという気持ちも分かります。

しかし大空を自由に羽ばたきたい鳥を小さな鳥かごの中に閉じ込めておくのとは違い、猫は部屋の中だけでも工夫次第で快適に暮らしていける動物だと私は思います(猫にきいてみたわけではありませんが)。

 

猫が車にはねられたり轢かれたりしたところを見たことがありますでしょうか?

それが自分の飼っている猫ではなくただの野良猫だったとしても、とても痛ましく、つらい気持ちになるものです。

ましてや自分の愛猫がそんな目に合ったりしたら、とても冷静な気持ちではいられないと思います。

 

あんなに運動神経の良い猫が、どうして走ってくる車の前に飛び出したりするのでしょうか?

その猫の心理を誰か専門家に解明してもらいたいものです。

 

猫の交通事故死は私たちが想像しているよりもはるかに多いそうです。

詳しく解説してくださっているサイトもありますので、ぜひ参照していただきたいと思います。

 

最後に

 

人間でも、乳幼児の死亡事故は安全だと思われがちな室内で起こっているケースが多いそうです。

水を張ったままにしておいた浴槽での溺死やコンセントでの感電など、考えてみれば危険なモノや状態というのは意外と多く存在します。

家の中も危険なのだという意識をもつことが、家庭内での事故を防ぐ一歩になるのではないでしょうか。 

 

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「ねこふんじゃった」という恐ろしい歌がある - 荒川光のブログ

「ねこふんじゃった」という恐ろしい歌がある

誰もが子供の頃に「ねこふんじゃった」という歌を聞いたことがあるのではないでしょうか?

 

猫を飼っている人は、時々この歌を思い出して口ずさむことがありませんか?

実は私もそうなのです。そしてどんな時に思い出すことが多いかというと、それは猫を踏んでしまいそうになった時なのです。

 

例えば私が台所で食事の準備をしている時、ちょっと冷蔵庫の中のものを取ろうと一歩足を踏み出そうとしたら、そこに猫のピヨピヨ(仮名)が寝そべっていてヒヤッとするということがたまにあります。

「危ないなぁ、ピヨピヨ! さっきまで隣の部屋にいたはずなのに、いつの間に!」という感じです。

幸い猫を踏んでしまったことは一度もありませんが、ドキッとしたことは何度かあるのです。

  

さて、ここであなたにもちょっと考えていただきたいのですが、もしも床の上に寝ている猫を踏んでしまったら、猫はどうなるでしょうか?

 

とても想像したくないことですが、心を鬼にして、できるだけリアルに思い描いていただけますか?

私もやってみます・・・。

 

 

どうでしたか? 猫はどうなりましたか?

猫の柔らかいおなか。華奢な背骨・・・。

 

 

そうです。猫は人間の体重で踏まれれば、死んでしまうと思います。

猫を踏むということは、すなわち猫の死を意味するのです。

 

 猫自身は飼い主に踏まれるという可能性を考えていないと思います。

人間のことを、誤って猫を踏んでしまうほど愚頓な動物だとは思っていないでしょう。自分と同じように敏捷で、瞬時の判断力に長けた生き物だと信じているに違いありません。

なぜなら自分自身がそうなのだから。

 

猫は獲物を追いかけたり逆に敵から逃げたりする時、もの凄いスピードで走ったり跳んだりしながらも、自分が踏みしめる地面の状態をよく見て、次々に判断を下しながら行動しています。

 

そんな猫にとって、「人間とは冷蔵庫の扉を開けるために一歩足を踏み出す程度のことで、猫に気づかず踏んでしまうほど間抜けな動物だ」などと、信じられるでしょうか?

 

しかしながら人間は、そのような点においては猫にはるかに及ばないほど劣っているのです。

猫が生まれながらにしていともたやすくやってのけることを、人間はできません。逆もまたしかりですが。

 

猫を踏むことを想像するとゾッとするのは、猫の苦しみと死のためばかりではありません。

「なぜ?」という疑問を猫に抱かせたまま死なせてしまうという、悔やみきれない結果となるからなのです。

さっきまで優しかったご主人様が、なぜ私を踏んだのか?

猫には分かりません。

「過失」ということを理解できないのです。

断末魔の猫に「なぜ?」という目で見つめられたなら、私にはとても目を合わせることなどできないでしょう。

 

 

前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、冒頭でも触れた「ねこふんじゃった」という歌について。

 

ちょっと調べてみたところ、この曲は作曲者不詳で、世界で約28種類の曲名がつけられており、国や地域ごとに様々な歌詞で歌われているそうです。

日本でもいろんな方がこの曲に作詞されているそうですが、中でも一番有名なのは、NHK「みんなのうた」でも使われた阪田寛夫さんという方の歌詞でしょう。

 

私は長い間多くの人々に愛唱されてきたこの歴史ある歌を、残酷な歌詞ゆえに批判しようなどという気持ちはありません。

「これっぽっちもありません」と書かなかった理由は「これっぽっち」くらいは実はあるからなのですが、それはひとまず置いておいて、私が疑問に思ったのはこの作詞家の方はどうしてこんな歌を作られたのかということです。

 

歌詞の1番2番を通して見てみましたが、何のオチもなく、ユーモアもなく、笑うこともできません。

歌ってみても、まったく楽しい気持ちになりません。

そしてこの歌からは猫に対する愛情を髪の毛ほども感じることができないのです。

 

きっとこの作詞家の方は猫がお嫌いだったのではないかと推察します。

猫好きな方だったなら、たとえいくら語呂が良くて、言葉遊びとして面白く、口ずさんで楽しかろうとも、こんな歌詞は書けないと思うのです。

(もっともこの歌は歌詞の意味を度外視したとしても、語調に品がなく、歯切れも悪く、音声的な美感もない低級なものですが)

 

こんな歌詞を喜んで口にする大衆というのは一体どんな野蛮人たちなのでしょうか?

こんな歌がウケるんだったら「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」の代わりに「犬の首切っちゃった、犬の首切っちゃった」も楽しいだろうし、「ウサギの目えぐった、ウサギの目えぐった」だって愉快なのではないでしょうか?

 

先ほど私はこの歌を「長い間多くの人々に愛唱されてきた」と言いました。しかし実のところこの歌は、それほど世間で歌われているわけではありません。

その証拠に私も含めてほとんどの人は、出だしの「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」の16文字しかそらんじることができないのです。

その後を続けて歌うことができません。

歌う理由も必要もないし、歌う喜びがないからです。

だったら出だしだって口にしなくてもよいのですが、親から聞かされたのか学校で教えられたのか、幼少期の純粋無垢な頭にすりこまれたこの忌々しい歌は、それから40年もたった今になってもひょんなきっかけで私の脳裏に浮かび上がってくるのですから困ったものです。

 

作詞をした阪田寛夫さんは小説家でもあり、芥川賞や川端康成文学賞の受賞歴もあるとのことです。一体どんなものをお書きになられたのでしょうかね。

こんなテキトーに考えて作ったような歌詞を世に出すなんて、もしかしたら何かのっぴきならない事情があったのかもしれません。

わざと半分ふざけたような歌詞を作るように依頼されたとか、借金のためにその場で1分で作ることを要求されたとか。

 

 

ひょっとしたらこの歌には、今の私には理解できない深い世界観や人生観が表現されているのかもしれません(ないと思うけど)。

「ねこふんじゃった」を軽率にも批判するという過ちを犯した浅はかな自分を、許せないほど後悔する日がいつか来るのかも(来ないと思うけど)。

 

子供の頃に「ねこふんじゃった、ねこふんじゃった」と口ずさみながら、私は幼いながらも「これはちょっと自分に合わない」というような違和感を感じていたのでした。

しかしその頃の私は、その違和感の正体を掘り下げて突き止めようとまではしませんでした。それは私の心に吹いてきた一瞬の風に過ぎず、すぐに過ぎ去っては忘れてしまうものだったからです。

しかし猫と一緒に暮らすようになった今ではあの頃の違和感の意味が分かります。

陽気な楽しいリズムに乗って猫を踏みつぶす歌を歌うなんて、猫に一体どんな恨みがあればそんなことができるのでしょう?

 

 

いつの日か誰か才能のある人がこの歌詞の別バージョンを作り、それが話題になり、世間に広まり、本家を凌いでこの曲のスタンダードとなることを願います。

そして私たちの孫の代には、子供たちがみんなその新しい歌を歌う日が来ますように。

 

 

さっきから偉そうなこと言ってるけどお前はどうなんだ、という声も聞こえてきそうなので、私もちょっと作詞に挑戦してみました。

こんなのどうでしょうか?

 

「猫フンしちゃった、猫フンしちゃった、猫まーくらもーとにフンしちゃった」

最低ですね。

禁酒の完成形とはこの状態だ! 禁酒していたことすら忘れてた! アルコールから自由になれた日

禁酒を始めてから約1ヵ月半がたった今日この頃。

自分でも予期していなかった驚くべき現象が起こりました。

 

それはここ最近、自分が禁酒していたことをすっかり忘れていたということ。

 

禁酒していたことを忘れて飲んでいたのかって?

いいえ、違います。

 

まったく酒を飲みたいとも思わなくなって、食事の時に水を飲むのが当たり前の習慣になって、禁酒していたことすら忘れてしまっていたのです。

 

つまり酒が頭によぎることすらなくなっていたのです。

 

こんなことってあるのでしょうか?

いくら物忘れの激しい私だとしても、四半世紀飲み続けてきた酒を、わずか禁酒1ヵ月半にしてすっかり忘れてしまっていたなんて。そんな馬鹿な!

 

でも、これは本当の話なのです。

 

禁酒を始めてから今までの間で、禁を破りかねないほどに飲みたくなったのは、最初の3、4日くらいです。

それを過ぎると我慢することがそれほど苦痛ではなくなりました。

 

時々思い出したようにアルコールへの渇望がぶり返すことは何度かありましたが、その闘いにはそれほど苦戦することなく、私は勝利しました。

 

炭酸水は安く手に入る上、ビールの代役を十分にはたしてくれました。

私が普段からテレビをほとんど観ないことも有利に働いたと思います。

ビールのコマーシャルは非常によくできていて、あれを観ると絶対に飲みたくなるからです。飲みたい気持ちにさせるために作っているのですから当然と言えば当然のことですが。

 

しかし酒を飲まずにいられた一番の要因は何かというと、私の今の生活が、これまでの人生の中でかつてないほどストレスの少ないものだということです。

 

禁酒に失敗する原因はいくつかあると思いますが、最も大きな原因は(医療機関での処置が必要な離脱症状を除けば)酒場やCMなどからの誘惑ではなく、ストレスではないかと思います。

 

どんな人間でも、生きている限りストレスから無縁ではいられません。

頭が良かろうと金持ちであろうと美人であろうと、誰もが何かしらのストレスを抱えながら生きているに違いありません。

そしてそんなストレスがアルコールにスーっと溶けていって、とても楽な気分になる。それが根本的な解決になるわけではないけれど、また明日、解決に向けて努力すれば良いのであって、今はしばし心を休めたい。

そんなアルコールの優しい愛撫を毎晩受けている者たちは、それぞれが抱えるストレスの大きさに比例して、アルコールとの別れのつらさも大きくなるのです。

 

眠りに就く前のひと時、ストレスから自由になりたい。

それを心の弱さだとは思いません。

少し楽になりたいという気持ちに何の罪があるのでしょうか?

 

しかしながら、アルコールと決別するためにはアルコール以外の方法でストレスと向き合わなければならないのです。

アスコールとストレスは常にセットで考えなければならないと思います。

 

ここでちょっと余談ですが、聞いた話によりますと、タバコのニコチンは人間の脳に「快」の感覚をもたらすのに対して、アルコールは「不快」の感覚を消し去るという、別種の働きがあるそうです。

どちらも依存状態になると絶つことが難しい嗜好品である点では似ているのですが、脳に対する作用の仕方は異なるそうなのです。

 

私は25歳頃にタバコをやめることができたのですが、喫煙期間はわずか5年ほどで、なおかつ1日に数本吸う程度のライトスモーカーだったにもかかわらず、禁煙を成し遂げるためには、今おこなっている禁酒の比ではないほど大きなエネルギーが必要だったことを覚えています。

 

私はいともたやすく禁酒に成功したことに、あっけにとられています。

25年間、ほぼ毎日、大量に飲んできたにもかかわらず、この結果なのです。

 

勝因は先ほども述べた通り、今の私が比較的ストレスの少ない時期にいるからだと分析しています。

 

念のために付け加えておきますが、今の私が順風満帆の状態だということではありません。

詳しくは述べませんが、経済的に非常に苦しい状況にあるのです。

消費者金融7社からの借入金の返済ができず、給料を差し押さえられ・・・などを想像していただければほぼ当たりだと思います。

 

しかしそんな状況の私ではありますが、それでも今の私の生活はこれまでの人生にないほど穏やかなものです(仕事の内容や職場の環境、人間関係などが)。

様々な小さなストレスはあれど、精神を害するほどの強烈なストレスがない。

禁酒にもってこいの、良い時期だったのだと思います。

 

今この記事を読んでくださっている方は、きっと禁酒に興味がある、あるいは実際に禁酒に取り組んでいらっしゃる方だろうと思います。

禁酒に成功していい気になっているわけではありませんが、僭越ながら私から何かアドバイスめいた助言ができるとすれば、「石にかじりついてでも酒を断つ」という気概よりも、今の生活の中で強いストレスとなっているものを取り除くという方法が近道ではないでしょうか? 

 

いわば「急がば回れ」作戦といいますか「北風と太陽」作戦といいますか「風が吹けば桶屋が儲かる」作戦といいましょうか。

禁酒を成功させるには動機や方法も大切ですが、「時期」も非常に重要だと思います。

 

日常の激しいストレスに禁酒のストレスが加わり、その上もし禁酒に失敗したときの自己嫌悪感や自己否定感、自分は意思の弱い無力な人間だという敗北感・・・。

そういった負の気分はアルコール以上に自分の心身を傷つける凶器になると思います。

 

負ける戦いをせず、勝てる状況を整えてから勝てる戦いにだけ挑むことが勝つ秘訣だという言葉も聞いた記憶があります(出典はなんでしたっけ?)。

 

 

先日私は某コンビニエンスストアで、お気に入りの500円くらいの赤ワインを手に取りました。

自分を試してみたのです。

 

ワインのボトルを、かつての私がしていたのと同じように買物カゴの中に入れてみました。左腕にさげた空っぽの買物カゴに、ワインボトルをそっと置いてみたのです。

ボトルは以前よりも少しだけ腕に重いように感じました。そして一瞬、心に微かな誘惑のさざ波が立ちました。

 

しかしさざ波は大きな波には成長せずにすぐに静まってくれました。すっかり元通りの精神状態に回復した私は自信をもってボトルの首をつかむと、余裕しゃくしゃくで元の棚に戻しました。

 

もちろん店員や他の客が見ていない時をみはからってのことです。もし誰かに見られたら、アルコール依存者が買おうか買うまいか逡巡していると誤解されかねません。

私がおこなったのはたんなる確認だったのです。その必要もないほど明確に分かっている答えの、再確認。

 

なんならビールを1本買って帰って、冷蔵庫で美味しそうにキンキンに冷やしておいて、それでも風呂上がりに飲まないでいられるか試しても良かったのですが、さすがにそこまでの自虐趣味はありません。

 

結局私はポテトチップスとチョコレートを買って店を出ました。

トランス脂肪酸と砂糖を肴に、独りっきりの炭酸水パーティーをやろうと企てたのです。

それでも酒を飲むより10倍身体にいいだろうと考えて。いや、悪さ加減が10分の1で済むだろうと考えて・・・。本当はどっちもどっちだと思うのですが。

 

最近は禁酒の完成度がより高くなってきて、ポテトチップスもチョコレートも炭酸水も必要なくなりました。

冷やした水道水(カートリッジ式の浄水フィルターを通してあります)だけです。

 

そしてついには「禁酒」という言葉自体が私に無関係なものになったのです。

元々お酒を飲まない人は禁酒していません。たんに「飲まない人」なのです。

私も今、そうなりました。禁酒しているのではなく、たんに飲まない人に。

 

あんなに長期間飲んでいた酒をあっという間に忘れられた自分を、少し薄情に思う余裕すらあります。

あんなに愛した女を、あるいはあんなに執着した片思いの女を、いともあっけなく、悪気もなく、屈託もなく、忘れ去ってしまうように、私は酒を、忘れ去ったのです。

 

いつの日か、何かの拍子にフッと過去の私を思い出して、照れ笑いしている自分を体験する日がくるのが楽しみです。

  

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猫はどうして飼い主の身体で爪とぎをしないのか?

今回は私がずっと疑問に思い続けている猫の不思議の1つについて書いてみようと思います。

 

それは何かと言いますと、猫は爪とぎ用のダンボールはもちろんのこと、イスや壁や柱などあらゆるところで爪をとぐにもかかわらず、人間の足やひざやふとももなどでは絶対に爪とぎをしないということです。

 

「えっ、うちの猫は私の脚で爪をとごうとしてくるよ」なんていう人もいるのでしょうか? そんな恐ろしい猫を飼っている方、お気の毒さまです。

 

うちの白黒猫ピヨピヨ(仮名)は人体で爪をとごうとはしません。ですのできっと他の猫もそうに違いないという勝手な仮定に基づいて以下の文章を書いていきます。悪しからず。

 

ピヨピヨは人の身体で爪とぎをしないばかりか、人の身体に爪を立てることも遠慮しているのが分かります。

 

いくつか例を挙げると、私のひざの上に乗っている猫がバランスを崩して下に落ちそうになった時、ひざに爪を立ててグッと力を入れれば持ちこたえることができるはずなのにそうしないのです。

重力に逆らってふみとどまろうという意思を見せずに、なすすべもなくイスの下にストンと落ちてしまいます。

 

また、イスに座っている私のひざの上に猫が飛び乗ってくる時にも、ひざに爪を立てて腕力を使って登ってくるようなことはありません。

爪を格納した安全な肉球の状態で、軽くポンと登ってくるのです。

 

しかし壁の少し高い所にあるお気に入りの出窓に登るような時には、後ろ足のジャンプ力、そして鋭い爪と前腕の力という素晴らしい身体能力を見せつけて、1.2mもある出窓へ鮮やかに登ります。

 

この違いは一体どういうことなのでしょうか?

 

人間の身体を、イスや柱ではなく「痛みを感じる生き物の身体」として区別できているということではないでしょうか?

 

もしそうだとすると、私は猫の知能についての今までの固定観念を改めなければなりません。

 

私は猫についても動物学についても何の知識もありませんので、あくまで素人の考えにすぎませんが、私は猫には「生命」という概念などないだろうと考えていました。

猫は自分自身のことを「生きている」と自覚していないだろうし、したがっていつか「死ぬ」存在であるということも知らないだろう、と私は考えています。

 

では猫は何を考えて生きているのか?

何も考えていないのだろう。

と思っています。

 

そんな猫が私の脚を柱とは違うものとして認識している。もちろん言葉で認識しているわけではないでしょうけれど、ちゃんと違いを分かっていて、人体に対しては扱い方を変えているのです。

 

私の脚に爪を立てたら痛いだろうとか傷つくだろうと考えて、猫は私に気を使ってくれている。

だからこそ、ひざの上からずり落ちそうになっても抵抗もせずにそのまま落ちてしまう。

そう考えると、ひざの上からツルンと滑り落ちてしまうピヨピヨがいっそう愛おしく思えてきます。

 

もちろん落ちてもケガなどしませんし、また登ってくるだけのことなのですが、これが人のひざではなくてソファーの端っこだったなら、爪を立てて踏ん張ると思うのです。

 

でも、もしも私がビルの屋上に座っているとして、私のひざからずり落ちたら地上まで落下して命がないというような場合であれば、猫はひざにしがみつくのでしょうか?

 

そんな場合であれば、たとえひざの肉や骨に爪を突き刺してでもピヨピヨには踏ん張ってほしい。

 

 

猫って運動神経が良いだけで、頭の方は今一つなんて思っていましたが、もしかするととても賢くて優しい動物なのかもしれません。

あんなに可愛い格好で眠ったりするのも、ひょっとしたら計算されたポーズなのでは、なんて思えてきます。

 

いろいろ思い返してみると、人間だったら我慢していないようなことも、ピヨピヨは何事もなかったかのように知らない振りをしてくれているのではと思うことが多々あります。

 

飼われているから仕方なく服従しているのではなく、私の器の小ささや優しさの足りないところまですべて見抜いた上で、私のことを許してくれているのではと、いつもの場所で丸くなって寝ているピヨピヨを見ていて思っちゃいました。 

猫はシャンプーされたくない! 嫌がるなら洗わなくてもいいのでは?

たいがいの猫はシャンプーされることを嫌がるものだと思うのですが、飼い主のみなさんはどうされているのでしょうか?

 

うちのピヨピヨ(仮名)の場合は子供の頃に2、3度洗ったことがあるのですが、とても嫌がりました。ですのでそれ以降は洗うのあきらめて、もう6年ほど洗ったことはありません。

 

小さい頃から定期的にシャンプーをして慣れさせていけば、しだいに嫌がらなくなるのかもしれませんが、まるでこの世の終わりかというくらいに泣き叫び暴れるピヨピヨを、押さえつけてまで洗うことはとても辛くて無理だったのです。

 

ピヨピヨには自由に外出させてもいましたが、生まれながらの綺麗好きで、汚れて帰ってくるようなことは1度もありませんでした。

シャンプーをしなくてもいつも綺麗で、また体臭もありません。毎日入浴している私の方が汚いくらいです。

 

 

テレビなどでアフリカの野生動物などを見ていても思うのですが、動物は風呂に入ったりしないのに、みんなきれいです(地獄谷温泉の猿は入りますが)。

ライオン、ヒョウ、キリンなどもそうですし、鳥もきれいです。

カモのように水中に潜って魚を獲るような鳥がきれいなのはもちろんですが、水に潜らない鳥でも汚れのない羽や真っ白な胸毛をしています。近所の川でよくみかけるサギも誰かに洗ってもらったのかというくらいに白いです。

 

人間だけが毎日せっせと体中を洗わないと、野生動物と同程度の清潔感を維持できないのはなぜなのでしょうか?

野生動物も実際に近くで見ると汚れていて臭いのでしょうかね。

 

それにしても猫にとって、体を水でぬらされ、強い匂いのする洗剤で毛の脂分を取り去られるというのは一体どれほどの恐怖なのでしょう? ちょっと想像するのが難しいくらいです。

何のために自分が何をされているのか、猫は理解することができないのですからなおさらです。

 

またシャンプーの後には十分なすすぎも必要になります。

毛にはもちろんのこと、皮膚の上に洗剤成分が残っていると肌荒れや皮膚病の原因にもなりかねませんし、毛を舐めた猫の体内に洗剤成分が入ることも心配されます。

しかし顔や耳のまわりにシャワーのお湯をかけられることは猫にとって拷問のような苦痛でしょう。またおなかやしっぽ、肛門付近を十分な量のお湯で洗い流すことも、猫が嫌がるため非常に難しいのです。麻酔をかけて眠らせている間に洗うのならば可能でしょうが。

 

風呂場から連れ出された猫は、今度はドライヤーという責め苦を受けなければなりません。その内容は強風と騒音です。

ご存じの通り、猫は大きな機械音をとても恐れます。掃除機をかけ始めるやいなや、大慌てで部屋の隅に逃げ込んでしまうくらいです。

その猫が耳元に大音量とともに熱風を吹きつけられ、手で激しく毛を撫でられ続けるのです。毛の中に空気を入れるため、背中をしっぽから頭の方へ向かって逆撫でされます。

おなかの柔らかい肌に熱風を受けて「熱ッ」と感じることだってあるでしょう。

本当につらい30分間だろうと思います。

 

洗い終わった後の猫はぐったりと疲れてしまい、免疫力も下がり、おなかを壊したり病気にかかったりするリスクが高まるかもしれません。

 

毎月こんな仕打ちをしていると確実に猫の寿命を縮め、飼い主に対する信頼感も損なってしまうのではないでしょうか。

猫にこのような苦しみを与えてまできれいに洗いたいというのは、猫のためというよりも人間のエゴのように私には思われるのですが、どうでしょうか?

 

エゴだなんてちょっときつい言い方をしてしまいましたが、恐怖に怯えて鳴き、爪を剝きだして暴れる猫ではなく、陽だまりで気もち良さそうに伸びをして、あくびをしている猫のそばに私はいたいと思います。

 

 

春から初夏にかけて大量に毛が抜けた後のピヨピヨは、少しスリムになり、新しく生えかわった毛は白さが増したような気がします。

今までの毛は薄汚れて、少し黄ばんでいたのだとその時に気づくのです。

 

でも品評会に出すわけでもあるまいし、うちのピヨピヨは漂白したみたいに真っ白でなくてもかまいません。それに、体表面積の3割ほどは黒いのですから。

猫が毛玉を吐いた! こんな塊が胃の中にあって体は大丈夫?

猫のピヨピヨ(仮名)を飼っていることは以前に書きました。

今日はその猫が毛玉の塊を吐いた話をしようと思います。

 

その前に猫の紹介を少しだけ。

名前 ピヨピヨ(仮名)

種類 不明

毛色 白黒のパンダカラー 面積比(白:黒/7:3)

雌雄 メス(避妊手術済み)

体長 約40cm(しっぽ部分除く)

体重 約5.0kg

年齢 約7歳

 

ピヨピヨが毛玉を吐いたことは過去にも1、2度あったのですが、ここまで大きな塊だったことはなかったので、正直に言ってびっくりしてしまいました。

計ってはいませんが、長さが10cm弱、直径は1.5cmほどはあったでしょうか。

茶色い円筒形をしていて、フローリングの床の上にそれは落ちていました。

こんなところでピヨピヨがフンをしたのかと一瞬ギョッとしましたが、近づいてよく見てみるとそれはフンではなく、胃液をたっぷりと含んだ毛玉だったのです。

 

この現象に先立つこと3分ほど前、ピヨピヨは2本の茹でたモヤシを食べたのでした。

どうやらそのモヤシが胃を刺激して、毛玉嘔吐につながったものと思われます。

 

私が誤って皿からテーブルの上に落としてしまったモヤシを1本、ひざの上のピヨピヨが恐る恐る手を伸ばして取ろうとしたためそれを与えたところ、なんとそれを食べたのです。

 

私は猫のエサについての無知ゆえに、変なものを食べさせてはいけないという考えから市販のキャットフード以外には何も与えないのが常でした。

しかしモヤシ1本を食べたことを嬉しく思った私は、もう1本くらいいいだろうと思い、2本目を与えました。

 

3分後。

ピヨピヨはケッケッケッっという、クシャミのような咳のような異様なうめき声を発しました。

その時はあまり気にもしていなかったのですが、しばらくして何気なく猫がいたあたりを見てみると、「ワァーッ」。

という次第です。

 

思い返してみると、過去に毛玉を吐いた時も、私は茹でたホウレンソウを少しだけ与えたのでした。

これは猫に関する雑誌で、茹でたホウレンソウを与えている飼い主の記事を読んだことに影響されてやってみたのです。

その後しばらくして、ピヨピヨは毛玉を吐きました。

 

調べてみると、猫草と総称される猫が好んで食べる草があるそうで、それを食べると胃をチクチクと刺激して毛玉の嘔吐を誘発するとのこと。

確かにスーパーの入口付近などで売られているのを私も見た記憶があります。

 

猫草に限らず野菜類でも同様の効果を発揮するのでしょうか?

野菜の種類、調理の仕方、そして当の猫との相性によるのかもしれません。

 

毛玉を吐き出したピヨピヨはその後、粗相をしてしまった子供のように少しションボリしたような申し訳なさそうな様子でしたが、しばらくすると胃の中のモヤモヤがなくなってスッキリしたのか、元気が出てきたようです。

こんな毛玉が胃の中に溜まっていたなら、さぞかし不愉快な気分だったことでしょう。

 

7年も飼っている猫ですが、今までに毛玉嘔吐を見たことがほとんどないのはどうしてでしょうか?

今まではフンと一緒に排泄されていた毛が、歳を取って排泄力が弱まったため胃に溜まるようになってきたのでしょうか?

それとも7年間かかって溜まった毛が、ここ最近になって吐き出されたとでもいうのでしょうか?

 

このアパートに引っ越してくる前に住んでいた部屋は1階だったので、夜はベランダのドアを開けて自由に外出させていたのです。

田舎なので夜間はほとんど車も通らず交通事故の心配もありませんし、いつも30分くらいで戻ってきましたので。

もしかしたらその外出の際に雑草でも食べて、外で吐いていたのかもしれません。

 

今住んでいる部屋は3階なので、ベランダからの転落が心配でベランダには出しません。また玄関からも、猫が迷わずに戻って来られるか不安なため出さないようにしています。

猫が平面上の方向感覚を持ち合わせていることは経験上分かっているのですが、階層の感覚が備わっているのかどうかは不明で、もし猫が別の階に移動してしまった時に、3階の自分の部屋まで戻って来れるのかどうか分からないからです。

加えてピヨピヨは非常に美しく、誘拐の危険もあるため、夜間も多少の人通りのあるこの町では外出させられないのです。

 

それにしても、胃の中にこんなに毛が溜まってしまうのは猫の健康上良くないのではないでしょうか?

さほど毛の長くない猫ですが、今の時期は毛が大量に抜けるため困ったものです。

また私に似て極度のきれい好きのため、毛づくろいには大変な念の入れようなのです(誰に見せるわけでもあるまいに)。

 

毛玉をフンと一緒に排泄させる成分を含んだエサもあるみたいですので、よく調べて試してみようとも思います。

そういえばキャットフードのパッケージにそのような効能を謳っているものを見た記憶がありました(今までの不注意、不勉強を反省)。

また今後は時々モヤシを食べさせて毛玉を吐かせようと思います。 

 

さて、今まではろくにブラッシングをしたこともありませんでしたが、今夜はピヨピヨ用に買ってきたブラシで、毛づくろいの手伝いでもしましょうかね。