荒川光のブログ

日々の生活のなかで感じたこと、思ったこと、考えたことを気軽に書いていくブログです。

猫はどうして飼い主に背を向けてすわるのか?

猫を飼っている人に尋ねてみたいのですが、猫がすわる時、それが床の上であれソファーの上であれ自分の膝の上であれ、いつも飼い主に背を向けてすわってはいませんか?

 

私が飼っている猫のピヨピヨ(仮名)が実はそうなのです。

そのことに気づいたのは、ピヨピヨの写真を撮ろうとしたことがきっかけです。シャッターチャンスを狙ってしばらくピヨピヨの動向を観察していたのですが、一向にこちらを向いてくれません。撮ることのできる写真は後ろ姿ばかりなのです。

 

そこで私は記憶をたどってみたのですが、思い返してみても、ピヨピヨがこちらを向いてすわっている姿が浮かんできません。例外なくいつも後ろ向きなのです。

 

場所には関係がなさそうで、キッチンでも、リビングでも、寝室でもそうなのです(あれ? 3部屋もあることをそれとなく自慢してしまいましたかね? なに、築40年のボロアパートですよ!)。

 

正面から顔を見れるのは、こちらへ向かって歩いて来るときと、後ろ向きにすわったまま首をひねってこちらへ顔を向けるときだけなのです。

 

膝の上にしばしば飛び乗ってくることもあるのですが、膝の上で足ふみをしながらくるっと回って体勢を整え、居心地の良い位置で足を折ってすわり込みます。でもそのときもやはり頭が向こう向き、おしりがこちら側なのです。不思議ですね。

 

猫背の背中やしっぽのカーブを見ているのもいいものですが、たまにはこっちを向いてすわればいいのに、素っ気ないなという気持ちにもなるものです。

 

そこで、ネットで調べてみたら何か情報が得られるかもしれないと本気で考えたわけではないのですが、試しに検索してみたのです。「猫」「後ろ向きにすわる」というキーワードで。

そうしたらなんと、検索結果にたくさん出てくるではないですか。

「へえー、こんなことについてまで書いている記事があるんだ、書いている人がいるんだ」と驚くやら感心するやら。

 

インターネットってすごいですね。そして世間に人が多くて、いろんな変わった人もいて良かった。

英語やロシア語やアラビア語や、様々な国の言葉で検索できたなら、愛猫が後ろ向きにすわることを嘆いたり心配したりしている世界中の人たちの記事を、きっと読めるのでしょうね。

ベトナムの猫も同じで、スウェーデンの人も同じなんだな」なんて笑いながら。

 

 

そんなわけでいくつかの記事を見てみましたところ、猫が飼い主に背を向けてすわる理由として、大きく分類すると以下の5点ほどの記載がありました。

 

1 背後から敵に襲われる危険があるため、信頼している飼い主に背後を任せている。

2 飼い主を守ろうとして前方を見張っている。

3 動物では目を合わせるということは威嚇の意味を持つため目を合わせない。

4 おしりを撫でてほしい。

5 信頼している猫(親猫など)におしりのにおいを嗅がせる習性がある。

 

つまり飼い主を嫌っているとかソッポを向いているというようなネガティブな態度なのではなく、信頼し、安心感を抱いているがゆえの行動なのだそうです。

 

もっとも上記の理由に科学的な根拠があるのかどうかは知りません。一愛猫家の個人的な希望や憶測が広まっただけなのかもしれません。

でも同じ猫好きの私としては、ぜひともこの理由を信じたいものです。愛すべきピヨピヨが私に全幅の信頼をよせ、またけなげにも私を守ろうとしてくれているなんて(でも一体何から?)。

 

正面からのベストショットはなかなか撮れそうにありませんが、いつかふいにこちらを向いた時をみはからってパシャリとやりたいと思います。

パクチー全滅 なぜ枯れちゃったの? 原因と改善策を考える

5月に種まきをしたパクチーがついに全滅してしまいました。

発芽して、双葉のあと本葉も出て、茎も成長してきていたのですが。

収穫を楽しみにしていたのに、こんな結果になるなんて。

そこで今回は、枯らしてしまった原因と今後の改善策について考えてみようと思います。

 

原因 1

発芽率が悪く、発芽した数自体が少なかった。

 

改善策 1

種まきをする前に種の殻を割って一晩水に浸しておく。

 

ネットや書籍で予備知識を得ずに栽培に取り掛かった私が悪かったのですが、後々調べてみると、以下の事実が発覚しました。

 

パクチーの種は硬い殻に覆われていて、そのままでは発芽しにくい。なので殻を割って中の種を取り出し、その種を数時間から一晩水に浸してふやかしておくと発芽しやすくなる」とのこと。

 

発芽する総数が多くなれば、その分生き残る株も多くなると考えられます。次回挑戦するときには是非試してみようと思います。

 

でも天然の(野生の)パクチー(そんなものがあるのかどうか知りませんが)は誰もそんなことしてくれないのに育って子孫を残していることを考えると、栽培に必須の作業というわけではなく、あくまで栽培の効率を上げるためにやった方が良いという認識で良いのではないかと思います。

 

原因 2

植え替えをしたあと根付かずに枯れてしまった。

実はこっちの方が問題なのでした!

 

改善策 2

植え替えはせず、発芽した場所でずっと育てる。

 

パクチーは移植(植え替え)を嫌うということは知識としては知っていたのですが、株に影響を与えないように、根の周りの土ごと広い範囲で移動させれば問題ないだろうと考えていました。

実際そのようにしたのですが、移植後は元気がなくなり、そのまま枯れてしまうのを止めることができませんでした。

 

土の節約のために(ケチですみません)浅い土の上に種をまいて、発芽したら間引きをして、選りすぐりの株だけを深いプランターに移して育てようと考えていたのでした。

しかしパクチーがここまで引っ越し嫌いだとは知りませんでした。生まれたところで死ぬまで暮らしたいということなのですね。

次回からは、初めから深く土を盛ったプランターに種をまこうと思います。

 

あと、枯れてしまった直接の原因ではないと思うのですが、栽培中に特に気になったことは、常軌を逸した茎の弱さです。

ジョウロで優しく水をやっただけなのに、へこたれてしまう茎。ペちゃんと倒れて地面にひざまずく葉。

「何でそんなに弱っちいの?」「意地はないのか!」と思わず言ってやりたくなります。

まったく見てるこちらの心まで折れてしまいそうになるほどか弱いんですからね。

棒を立てて茎を支えた方がいいのでしょうか? 葉に水がかからないように、注射器か何かで根本にそっと水をやらなければならないのでしょうか? 

そんな方法が記載されている記事は見当たりませんでしたが、他の人はどうしているのでしょうか。

土が合っていなかったのか、肥料が足りなかったのかもしれません。酸性だとかアルカリ性だとか、植物の種類によって好む土の性質もあるそうですので、もっと勉強しようと思います。

 

まったくむずかしい植物です。抜いても抜いてもはびこる雑草がいかに強いのかが分かります。踏まれても平気ですからね、かれらは。

 

パクチーの種まき時期は3~6月と9~11月とのこと。秋になったらもう一度チャレンジしてみます。

 

   パクチーの種をまいた時の記事はこちらをどうぞ 

パクチー(コリアンダー)の種を蒔いたら発芽して嬉しかった! - 荒川光のブログ

「アナと雪の女王」から学ぶ、観客を退屈させない工夫の功罪

大ヒットしたディズニーアニメ「アナと雪の女王」を、公開から3年以上たった今になって、DVDでやっと観てみました。

視聴しての感想はいろいろあるのですが、今回はその中でも私が非常に考えさせられ、勉強にもなった点について述べてみます。

 

物語の粗筋については割愛させてください。

映画をまだ観ていない方には分かりにくいところがあるかもしれませんが、興味を持たれた方は是非実際に本作をご覧ください。

 

*国王夫妻をすみやかに、美しく死なせる手際の良さ

 

アナとエルサの両親、つまりアレンデールの国王夫妻は船旅に出るのですが、途中で嵐にあって船は沈没、夫妻は命を落とします。

これをわずか30秒ほどの映像で「説明」してしまうのです。

出発の場面、船に乗り込むシーン、嵐の海で大波にもまれる船、葬儀と遺影。

こういった5つ6つの場面を連続して映すだけで、国王と王妃が亡くなったということが私たちに知らされます。

国王夫妻はなぜ船に乗らなければならなかったのか? どこへ向かったのか? それは分かりません。またそんなことは映画の本筋に必要ではなく、国王夫妻に死んでもらうことだけがストーリー上不可欠なことなのでした。

子供の観る映画なので死の残酷さを可能なかぎり少なくし、なおかつ視聴者も納得する死なせ方として海難事故が採用されたのでしょう。

 

人の死には大小あれど苦痛が伴うものですが、映画の中ではその苦痛は表現されず、嵐の海で沈没の恐怖とともにいる夫妻も描かれません。

視聴者は死の生々しさに触れることなく「死んだ」という情報だけを安全に得て(というよりも「ゲット」して)それに続く楽しいストーリーに再び戻ってこれる仕掛けになっています。

2時間に満たない映画なのですから、もう少し時間をかけて船内の様子や、パニックに陥る乗客や、悲嘆にくれる遺族の様子も描写できたはずなのですが、そうはしなかった。

ここから学べるのは視聴者を飽きさせないための工夫です。少しでも退屈されそうな場面はそぎ落とし、しかし視聴者がストーリーを追っていく上で最低限必要な情報は最短の時間で伝える。

 

「所々ダルかった」とか「途中で時計ばかり見ていた」などという感想が出ることは避けなければなりません。「退屈だった」という感想を持たれることを異常なほど恐れる製作者側は、退屈要素を洗い出し、潔癖症なほどに徹底的に排除してしまう。

視聴者がこの映画をビデオで観ていたなら早送りしてしまいそうな場面は、製作者側が親切にも初めから早送りした状態で完成させてくれたのです。

そしてそれは確かに成功していたのですが、その結果ストーリーの展開の仕方に強引さを感じてしまったことも否めません。また、あまりにも駆け足で物語が進んでいき、こちらが想像力を膨らませるようなゆとりや、車のハンドルでいうところの「あそび」がありませんでした。

 

観客を退屈させまいという過剰なサービス精神は、息もつかせぬほどに次から次へと感情を揺さぶるシーンを私たちに押し付けてきて、それは少し暴力的なほどです。

オラフという雪だるまが夏を想像して歌う場面など、ちょっと観客に一息つかせるような「ゆるい」場面も確かにあるのですが、それすらも計算されてそこに用意されたゆるさであり、視聴者はここでホッと一息つくことを強制されます。

ここでドキドキしろ、ここで怒れ、ここで感動して、ここで泣け、という風に視聴者の心理状態を恣意的にコントロールしよう、そしてそれは可能であると思い込んでいる製作者の、ちょっと意地悪な言い方をすれば傲慢さを、敏感な人は感じてしまうでしょう。

そしてそんな意図は理解していながらも、いともたやすくその通りの気分にさせられてしまう自分を「まぁいいか、そんな風に作られているんだから」と半分あきらめ気分で納得させようとするのですが、やはり屈服したような敗北感は拭いきれません。

 

退屈を乗り越えて視聴者が我慢強く映画を観続けてくれるだろうかという不安は、コンテンツの製作者には常にあるものだと思います。また、忍耐強く観てくれる視聴者だけに理解されればいいなどとも考えていないでしょう。

エンターテインメントなのですから素直に楽しめばよいのですが、楽しませようという下心が透けて見えるほどに不自然に作りこんでいると、かえって楽しめないという矛盾が起きてしまいます。

「愛してる」「愛してる」などと身分不相応なほどに言われると、かえって嘘っぽく感じてしまうようなものでしょうか?(注・言われたことはありませんが・・・)

 

古典文学などには非常に退屈な場面が多く、ドストエフスキーバルザックなどでも一見端折ってもさしつかえないようなこまごまとした描写が延々と続くところがあります。部屋の中の描写だとか、家具や衣装がどうだとか、そんなどうでもいいように思えることに何ページもさいています。

そんな場面を読者に苦労させて読ませようとする作者の意図はなんなのでしょうか? そもそも読者のことなど考えてなくて、自分の描写力や修辞の技巧などを開陳する場として捉えているだけなのでしょうか? 

 

クラシック音楽も私は好きなのですが、ベートーベンにしてもモーツァルトにしても、例えば長い交響曲の中などには退屈する部分がやはりあるのです(でもそんなところを耳を澄ませて一生懸命聴くのも好きなのですが)。

何か訳があってわざと退屈させる部分を作っているのでしょうか?

もしそうなのであれば、その理由を是非ともきかせてもらいたいものです。

 

結局は製作者が自分の美意識の表現のために作っているのか、作品の受け手のために作っているのかという違いでしょうか。

 

私もブログの記事を書いていて、私自身は書きたいことだけれども読んでくれる人が退屈しそうだと思う部分は悩んだ末に削除してしまうことが多々あります。

今後どんなふうに記事を書いていくかということについても考えさせられる映画でした。

 

でも私の場合は何も心配しなくても大丈夫ですね。読みたくなければ読者が一瞬でページを閉じてくれますので。ふふふ。

 

ということで、得意の(?)自虐でしめさせていただきます。ありがとうございました。

「今さら人に聞けない○○」っていう言葉を目にするたびにイラつく

最近あちこちで目にする

「今さら人に聞けない○○」という言葉

本当に人をイラつかせますね

 

今さらきいて何が悪いの?

私には「今さら人に聞けないこと」なんて一つもありませんよ

何だって、誰にだって、平気でききますからね

 

こんなことも知らないなんて恥ずかしいよ、と人を不安にさせて

これくらいのことは知っておかなきゃダメだよ、と相手の価値を貶める

 

挙句の果てには

「サルでも分かる○○」なんて人を小馬鹿にしたような謳い文句で

分からない人のことをサル扱い

 

そして自分に自信を持てなくなった人たちから

お金や時間をだまし取っている詐欺師たち

 

まるで「オレオレ詐欺」ならぬ「今さら人に聞けない詐欺」ってやつですね

 

そんな手にのる私じゃない

今さらだって一向にかまうもんか

堂々と尋ねてみようよ

「知りません」「教えて」という一言で、また自分の世界が広がる

 

お礼に、自分の知っている数少ない、いくつかのことを

みんなにおすそ分け

 

 by 荒川光

 

 

なんてちょっとポエムっぽい感じで書いてみましたが、どうでしたでしょうか?

私は日常腹を立てたり憤ったりすることの少ないタイプだと自負しているのですが、件の「今さら人に聞けない」にだけはどうしてもひと言もの申したく、怒れる詩人と化してしまいました(怒っても怖くないけど)。

 

それにしても、知らないってことはそんなに恥ずかしいことでしょうか?

昔と違って今の時代は情報量がとんでもなく多く、なおかつ今こうしている瞬間にも、膨大な情報が次々と生まれています。

曾祖父母の時代のように、これだけ知っていれば一応大丈夫などという安心できる常識の範囲が不明瞭です。

コンピューターやインターネット、政治や経済からサブカルチャーにいたるまで、今やどこまで知っていることが社会から求められているのか分かりません。

 

よく「こんなの常識だぞ」などと偉そうにのたまう人がいますが、そんなセリフを自信満々で口にできる人というのは、この世界がどれだけ広いか知らないのではないでしょうか?

自分の住んでいる世界しか知らないものだから、常識とそうでない範囲との境界を簡単に線引きできるのでしょう。

 

でも私たちが自分の慣れ親しんだ世界から一歩足を踏み出せば、もう自分は異邦人。

挨拶一つするにも、まごまごしてしまうことだってあるのです。

 

そう考えると、勇気を出して安全地帯から出てみようとしない人たちだけが、非常識のそしりを免れていられるのかもしれません。

しかしそんな臆病な人たちが、世代の違う人や、宗教の異なる人や、外国人や、障害のある人や、性的少数者や、ニートやひきこもりや犯罪者たちと、コミュニケーションを取れるでしょうか?

もっと言えば、私たちは一人ひとりみんな違う人間なのに。

 

だから私は自分の常識を頼りにできない状況での経験(例えば旅などはその典型だと思いますが、それに限りません)を積むことに、もっと積極的になろうと思います。

その経験が、翻って常識の庇護を受けられずに戸惑っている人たちのことも慮れる力になるのではないかと考えるからです。

 

「常識」はそんなふうに一人ひとり違う私たちが円滑に関わっていくために便利な道具であり続けてきたのでしょうが、今の時代には「常識」の範囲は相対的にあまりにも小さくなり過ぎて、もはや「常識」の役を果たさなくなってきていると思います。

 

「常識」の反対を「非常識」というように対義語として捉えるのではなく、「常識」から放射状にだんだんと常識の色合いを淡くしていくグラデーションというように、知識の総体を考えてみるのはどうでしょうか?

「常識」のすぐ外側に危険な「非常識」の海があるのではなく、その間には静かで穏やかな波打ち際が・・・。

なんて景色、良くないですか?

 

「今さら人に聞けない」などと恥ずかしがることもなく、また恥ずかしがらせることもなく、お互い相手の無知に寛容でありたいものです。

 

などと、なんだかよく分からない文章をまとまりもなく書いてしまいましたが、言いたいことを乱暴な一言でいうと、つまり

「お前だってよく知らねぇことあるだろ。自分の知ってることしか知らねぇくせに」

ってことです。

 

あーすっきりした。

祝)禁酒1週間達成 もう飲酒生活には戻れない! 快適ノンアルコールライフ

先日、禁酒3日を経ての心身の変化をレポートしましたが、今日は禁酒1週間が過ぎて新たに発見した驚きの変化についてお伝えしたく筆を執りました。いや、キーボードをたたきました。

 

 

味覚の回復

コンビニエンスストアでカレーを買ってきて食べたのですが、私を驚かせたのは、舌にピリピリとくる化学調味料っぽい刺激でした。

もっとも、それが本当に化学調味料のせいなのかどうかは本当のところ不明です。ですので、根拠のない私の感想で、某コンビニエンスストアのカレーを化学調味料過多のかどで攻撃しようなどと、そんな意図はありません。

私がお伝えしたかったのは、今までに何度となく同じカレーを美味しく食べてきたのに、こんな刺激を舌に感じたりしたことがなかったということなのです。

いくら工場で作っている食品とはいえ、一つ一つ個体差はあるものでしょうし、材料の混ぜ具合か何かで特別味の濃いところにあたっただけなのかもしれません。

しかし、唐辛子などの香辛料ではなく、何か違和感のある刺激を舌に感じたのは事実なのです。

これはもしかしたら私の味覚が復活したせいではないか? アルコール漬けで麻痺していた味蕾の細胞や味覚神経、そして脳の味覚をつかさどる部分が回復してきた兆しではないか? と嬉しくなったのです。

 

 

夜間の運転が楽に

夜間に車の運転をするにあたって、周りの景色がとても見やすくなりました。

これはもう気のせいなどではなく、あきらかに実感できることです。

 

別の記事にも書きましたが、私は運転代行の運転手をしていますので夜間に運転するのが仕事なのですが、ものが非常に見えづらくて困っていました。

眼鏡の度も合っていますし、昼間車を運転するにあたっては何ら支障はないのです。

しかし夜になるととても見づらくなる。誰でも昼間よりも夜間の見え方が悪くなるのは当たり前ですが、その落差が私の場合は特に激しいと感じていました。

ただ視力検査で測定できる視力とは違い、夜間のものの見え方を他人と比較することは難しいのですが、他の運転手から、私が道を覚えていないだとか、目印になるべき建物や標識を見落としているなどの指摘は以前から多かったのです。

 

これは視力や記憶力のせいではなく、夜盲症(いわゆる鳥目)の症状が原因なのではないかと考えて、ビタミンAを摂取すべくニンジンやレバーを食べたりなどの努力をしてみたのですが、改善する気配がありませんでした。

 

それがどうでしょう。昨夜車から見た町の風景の鮮明さと言ったら。

同じ時間帯に同じ通りを走っていても、以前にはぼんやりとしか見えていなかったセンターラインやガードレール、建物の壁や看板、道路わきを走っている自転車までくっきりと見えるではないですか。

曇り空で月明りも出ていない夜でした。一緒に乗った同僚に、車のヘッドライトを明るいものに交換したのかと尋ねたほどです。

 

アルコールは神経毒といいますし、禁酒によって神経の塊である目や、視神経、脳が回復してきたのかもしれません。

 

ウットリするようなほろ酔いの快感が恋しくなることもしばしばですが、夜間視力の回復によってこんなに仕事が楽になりストレスが軽減されることを思うと、また元の状態に戻ることなど考えられません。

 

そんなわけで、禁酒による恩恵についての続編を書いてみました。

今まさに禁酒に取り組もうとしているあなたに、離脱症状(禁断症状)と格闘中のあなたに、アルコール絶ちを継続するためのモチベーションの一助になれば幸いです。

 

 

    禁酒3日目の記事はこちらをどうぞ 

禁酒を始めてからの心と体の変化について書いてみる - 荒川光のブログ

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禁酒の完成形とはこの状態だ! 禁酒していたことすら忘れてた! アルコールから自由になれた日 - 荒川光のブログ

 

禁酒を始めてからの心と体の変化について書いてみる

6/15(木)から禁酒を始めました。

お酒をやめた理由はいろいろあるのですが、一番の理由は「脳力」の衰えを感じるようになってきたためです。それを私はアルコールのせいだとみています。

 

適度な飲酒は体や脳に良いとか、適度でもやはり良くないとかいろんな情報が飛び交っていますが、その真偽はともかくとして、私の場合は適度を超えた、あきらかに度を超えた飲酒魔だったのです。

 

幸いにも(いや、不幸にしてと言った方がいいのでしょうか)非常に働きの良い肝臓が過度のアルコールにも対応してくれていたのですが、それに甘え過ぎた結果、アルコールのせいなのか歳のせいなのか、脳の萎縮を思わせる症状がここ最近自覚されるようになってきました。

このままだとアルコールで脳が溶けちゃうんじゃないかという危機感にかられて、意を決して禁酒に挑んだわけです。

 

禁酒して丸3日が過ぎたので、ここまでの体調や気分その他の変化について書いてみようと思います。

 

たった3日で何が分かる! 3年禁酒してからものを言え! との意見もあるでしょう。しかし、私のように1年365日のうち362日は酒を飲むという生活を20年も続けてきた人間にとっては、3日の禁酒は体液のバランスが崩れてかえって体調を乱すくらいの大きな変化をもたらしたのです。

 

ではさっそく、どんな変化が起こったのか。

まず一番驚いたことは、睡眠時間が3時間くらい少なくなったことです。少なくなっても体調も気分もバッチリで目が覚めるのです。

私は元々ロングスリーパータイプのため、長時間眠らないと心身が100パーセントの働きをしてくれませんでした。しかしこの御時世、心ゆくまで睡眠をむさぼっている時間などありません。ただでさえワーキングプアの私のこと、睡眠時間を削って、いわば寿命を削って働かなければ生活が成り立たない身なのです。

 

今までは「いくら寝ても体調が万全でない感じ」が常に私にまとわりついていました。そのためできるだけ睡眠時間を確保しようとします。すると仕事と寝ること以外には使える時間がありません。ただ仕事をするためだけに生きているような毎日でした。

休日などは14時間くらいぶっ通しで平気で寝ていたものです。それが禁酒を始めてからは6時間も眠れば目が覚めて、気分も爽快。きっと睡眠の質が改善されたのでしょう。アルコールは確かに寝つきをよくしますが、深い眠りを妨げるものだそうですね。

 

2つ目は心と身体の反射神経が良くなったことです。

例えば会話をしている時にでも、言葉がパッと口から出てくる。必要な時にサッと手が出る、足が出る(殴るとか蹴るの比喩ではありませんよ)。それらの反応速度が0.1秒速くなっただけでも、生活のしやすさや人間関係の快適さが全然違います。大げさに言うと生きるのが楽になったとでも言いましょうか。

 

今までは世界の動きにいちいちワンテンポ遅れてついていくしかなかった私が、禁酒後はジャストタイミングで反応していけるようになったのです。このまま禁酒を続けていけば、やがては世界に先手を打って行動を起こしていけるのではといった有能感すら湧き起こってきます(酔ってませんよ私、念のため)。

 

もう一つ起こった変化は、肌のつやが良くなり、表情から疲労感が消えたことです。

アルコールを代謝するためには肝臓をはじめ体の各器官を働かせなければならないため、想像以上に体を疲労させていたものと思われます。

 

一方負の変化を挙げると、ニキビ(吹き出物というのか?)が一つ二つ顔に出てきました。これが禁酒に伴う症状なのかどうか分かりませんが、「好転反応」というものだろうと勝手に解釈しています。そんな反応が医学的に本当にあるのかどうか知りませんが。

 

何か新しい習慣を始めることは難しいことです。例えばランニングを始めるとなると、そのための時間を捻出しなければなりませんし、シューズなどの準備も必要。つまりそれまでの生活を何か変えなければなりません。

 

しかし、禁酒は新たに始める習慣ではなく、今までの「飲酒」という習慣をやめることです。これにはお金も時間もかかりません。ただやめれば良いだけのことで、今まで飲酒に費やしていたお金と時間が手元に残るのです。

そう考えれば禁酒はとても簡単なことのように思います。

実は20年前に禁煙を成功させた私。今度は禁酒に挑戦と意気込んでいます。

 

デトックスという言葉をよく耳にしますが、半世紀近く生きてきた私はここに来て一度自分を見直し、悪習慣、悪癖のデトックスに取り組もうと思っています。その一つが禁酒なわけです。

 

この記事はお酒好きの人を否定するものでは決してありません。私も禁酒したとは言ってますが、今後一切飲まないなどとは露ほども考えていません。

楽しく飲める場に参加することに、やぶさかではありませんし、自宅でのんびり飲みたい日にはもちろんそうしますし、朝焼けのベランダで日の出に乾杯だってしちゃいます!

 

ただ、今までのように、長年の習慣として無自覚に惰性でアルコールを口にすることはやめて、一杯一杯を特別な一杯として自覚的にいただくように改めていこうという試みなのです。

よりありがたみを感じて飲むための禁酒ってとこでしょうか。

  

    禁酒1週間後の記事はこちらをどうぞ

祝)禁酒1週間達成 もう飲酒生活には戻れない! 快適ノンアルコールライフ - 荒川光のブログ

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パクチー(コリアンダー)の種を蒔いたら発芽して嬉しかった!

先日ホームセンターでパクチーの種を買ってきて蒔いてみたところ、見事に発芽したので嬉しくなってこの記事を書いています。

種を蒔けば芽が出るなんてあたりまえじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、蒔いてから芽が出るまでの数日間は、はたして本当に芽が出てくれるかと、ハラハラドキドキするものです。

今までにもベランダガーデニングでいろいろな植物の種を蒔いてきましたが、芽が出たときの感動はいつも特別です。特に市販の種ではなく、自分で食べたピーマンやゴーヤやレモンなどの種を蒔いて芽が出たときは本当に信じられない気持ちになります。

 

それにしても、考えれば考えるほど「発芽」というのは不思議で神秘的な現象です。

小学校の理科の時間に、水と適当な温度と酸素などの条件が整えば発芽すると習ったような記憶がありますが(間違っていたらすみません)、実際に発芽を目にしたときに私が感じるのは、そんな化学反応によってプログラムされていた通りに起こった現象ではなく、種自身が力を発揮して芽を出したといった印象です。

水でぬらされた種がなんだかムズムズしてきて、がまんできずに脚をニョキっと出したというか、眠っていた種の中に少しずつ力が宿ってきて、一杯になった力が種を押し広げたというか、そんな風な種自身の自発的な力を感じてしまうのです。

 

種から伸びてきた脚が土の中に入っていき、そこで足場を得て、重い種をグッと持ち上げて、種の中で成長した双葉がゆっくりと種を脱いでいく。そして生まれて初めて外気に触れたうす緑いろの双葉は、まるで両腕を広げて太陽の光を受け止めるかのように空に向かって小さな葉を広げる。

 

このあと本葉が茂ってきたり、茎が長く太く成長してきたり、花が咲いて実がなって、ついには自分が元々それだったところの種をつけたりする過程においては、多少なりとも栽培者の力も寄与したと考えることもできるのですが、最初の「発芽」に関してだけは、私には応援し、祈る以上の手助けは何一つできません。種に頑張ってもらうしかない。

 

さて、パクチーについてなのですが、最近流行っているようで頻繁に耳にするようになりました。パクチーを山盛りにしたサラダまであるそうですね。

私が初めてこの植物を口にしたのがいつだったのか記憶が定かではありませんが、その時に私の頭に浮かんだのは「料理の中に間違って何か腐ったものでも入っているのだろうか?」という疑いでした。ただその食事の席ではそのような疑問を口にすることができない状況だったのだと思いますが、私は何も言わずにそのまま食事を終えたのでした。

 

その変なにおいの原因がパクチーなる植物であることを知ったのは何年も後になってからのことです。そしてその変なにおいのする植物を使った料理がいろいろあることを知ると、それは私の中で「良い香り」に変化したのでした。

 

「間引き」という言葉を思い浮かべるたびに心の痛む思いがするのですが、間引かなくてもよいように10センチも間隔をあけて一粒一粒種を蒔いていけるほど私のアパートのベランダは広くありません。それゆえ狭いプランター一面にパラパラと種を蒔いて、たくさん発芽したあと間引き作業が必要になってきます。

 

どの種も頑張って芽を出してくれたのに、その芽を摘んでしまうのはつらいのですが、今日間引きをおこないました。

まだ双葉のあとの本葉が出たばかりなのに、根は思いのほか深くまで伸びていて、引っ張るとプチッと小さな音が。

食べてみるとあの良い香りが口の中に広がりました。まだ幼い葉にもかかわらず、大人と同様の香りをすでに身につけていたのです。

 

これからの成長を見守るという楽しみが一つ増え、灰色の(?)私の毎日の生活に一筋の光が差したのでした。